平成19年2月1日発行 高照山 第230号
妙光寺執事 内海雄幸

九仭の功を一簣に欠く

本年度初めての12日の御逮夜唱題会に当たりまして、ただ今は皆様方と共に読経唱題を申し上げ、謹んで妙光寺支部、正道講支部両支部の折伏誓願目標の達成を御祈念申し上げた次第でございます。
  さて、世間におきましては、何か目的を成し遂げるために行動を起こしまして、その目的があともう少しで成功するというところで、安心して手を抜いてしまう。つまり、最後までの努力を惜しんだために達成することができなかった、ということがよくあるわけであります。
  このことを中国の『書経』という古典には、「山を為す九仭、功を一簣に虧く」というふうに述べられておりまして、一般に「九仭の功を一簣に欠く」と言われているわけであります。これは九仭という極めて高い中国における高さの単位まで、大きな山を築き上げることを目的といたしまして、一簣、すなわち一つのもっこに土を入れて運べば完成するというところまで土を盛り上げていきましたが、最後になって「ここまでやったのだから、もういいだろう」というようなことで安心して手を抜いてしまい、結局、それまで築いてきた大きな山全体が崩れてしまったという譬えからきているわけであります。
九割九分、完成した大きな仕事が、最後の僅かな油断のために、すべて台無しになることの譬えとして、この言葉は用いられております。仕事や勝負事などで最後の最後まで気を緩めるな、という戒めの言葉でもあるわけであります。
  翻って、私たちの信心について、この言葉を考えるときには、どうでありましょうか。「何十年も一生懸命、自分自身は信心をしてきました。それなりの功徳も頂いたから、老後はもうお休みしてもいいよね」というような考えも同様かと思うわけであります。
  日蓮大聖人様は「一生成仏」(御書46n)ということを仰せになっていらっしゃるわけですから、その臨終の瞬間までが、まさに信心でございます。したがって、信心の世界には、「ここまで信仰したから、あとは何もしなくていい」というような考え方は全くないわけであります。
  法華経の『法師品第十』に、
  「薬王、譬えば人有って、渇乏して水を須めんとして、彼の高原に於て、穿鑿して之を求むるに、猶乾ける土を見ては、水尚遠しと知る。功を施すこと已まずして、転湿える土を見、遂に漸く泥に至りぬれば、其の心決定して、水必ず近しと知らんが如く、菩薩も亦復是の如し」(法華経328n)
というお経文がございます。このお経文の意味は、もし人が喉が渇いて水を飲みたいために、高原において穴を掘りますと、最初は乾いた土しか出ませんので、水のある場所はまだ遠いと知ります。しかし、労を惜しまず掘り続けますと、だんだんと湿った土が出てきて、さらにもっと頑張って掘ると、泥の土が出てきまして、水は必ず近くにあると知り、最後には水を得ることができるというわけであります。この譬え話を、釈尊が説かれた教えに当てはめてみますと、土の中の水は中道、乾いた土は三蔵教、湿った土は方等教・般若教等の方便説の中道義、泥の土とは法華経の『方便品』において、正直に無上道が説かれることが顕露になったことを譬えているのであります。そうして、最後の本当に渇きを癒すところの清い水は、法華経の寿量品に至って得られるというわけであります。
  しかし、この譬え話においても、土を掘ることを途中で止めてしまって、湿った土や泥の土のところで満足してしまっては、本当に喉の渇きを癒すということはできないというわけであります。
  つまり、何十年も幸福になりたいと一生懸命信心をしてきて、その時に応じた功徳を頂いていたとしても、最後に信心を怠っては、本当の成仏の境涯を築き上げるための功徳と言うわけにはいかないのであります。
  また、このことは、折伏においても言えることではないかと思います。皆様方がある人に信心のお話をしたいと思ったといたします。一番最初に「私は日蓮正宗の信心をしているのよ」と話しかけて、「私は妙光寺というお寺に行っているのよ。あなたも一緒に行ってみない」というようなことを呼びかけるといたしますと、それだけでも大変な努力と勇気がいることは私も存じております。しかしながら、そういった言葉が言えたとしても、それだけで“ああ、言えたんだ。もういいや”ということで終わってしまったら、折伏は成就しないのです。たしかに下種の発端にはなるでしょうけれども、相手を成仏の境涯に至らしめるというわけにはいかないのです。そうして、今度は御授戒を受けるという段階になった場合、“ああ、御授戒を受けさせてよかった。もうこれで安心だ”と、そこで終わってしまってはいけません。実際にまだ信心修行をしていないわけですから、それでは何の功徳も得ることはできないで終わってしまいます。さらに、今度は御本尊様を頂かせることができたといたしましても、もちろん、これは大変すばらしいことではありますが、これから勤行唱題をする、あるいは折伏をするということを教えなければ、ただ御本尊様を家の一角に安置したというだけで、成仏の境涯を得ることができないという結果に終わってしまいます。
  皆様方の周囲には、まだ入信していない友人・知人が大勢いらっしゃると思います。そういう方々を正法に導いて、共々にお題目を唱えていくということが信心の醍醐味であって、目的なのだということを、どうぞ知っていただきたいと思うわけでございます。
  日蓮大聖人様は、
  「設ひ身命に及ぶとも退転すること莫れ」(御書721n)
と仰せでございます。大変厳しいお言葉でござますが、私たちは命がけの信心をどこまでも貫いて、何物をも恐れぬ不退転の信行を全うしようではありませんか。
  法華講としての活動、就中、折伏が前へ進んでいなければ、組織としての退転ということにもなってしまうわけであります。
  今年こそは「行動の年」と言われているわけでありますから、実際に皆様方の信心修行の功徳を顕現する、実践の行動をぜひ起こしていただきたいと思います。
  昨日、1月11日に、墨田区向島の常泉寺において、信徒の代表八百名、僧侶百八十名が参加いたしまして、関東大布教区僧俗指導会が執り行われた次第でございます。
  その席上で、法華講総講頭の柳沢喜惣次氏の単純明快なお話がございました。その大要は、御報恩の折伏ということの大事についてでございまして、仏様に対する御報恩をしないと、徳が下がるという趣旨でございました。要するに自分自身のためだけに信心をしている人、御報恩謝徳をする・折伏を実践するということを考えない人であっては、その人から福徳が逃げていくんだということを言っておられました。
  本当に、皆様方と共に“今年こそは頑張らなければいけない”と感じている次第でございます。これからまだまだ寒くなると思いますが、皆様方には、どうかお身体に留意されて、この「行動の年」を最後まで闘っていっていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせていただきます。本日は御参詣まことに御苦労様でございました。(平成19年1月12日 御逮夜唱題会において)


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