平成19年3月1日発行 高照山 第231号
妙光寺住職  尾 林 日 至
四条金吾殿御返事(二)
文永9年5月2日  51歳 

 「経に云はく『諸仏智慧甚深無量』云云。此の経文に諸仏とは十方三世の一切の諸仏、真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀、乃至諸宗諸経の仏菩薩、過去未来現在の総諸仏、現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて、次に智慧といへり。此の智慧とはなにものぞ、諸法実相十如果成の法体なり。其の法体とは又なにものぞ、南無妙法蓮華経是なり。釈に云はく『実相の深理本有の妙法蓮華経』と云へり。其の諸法実相と云ふも、釈迦多宝の二仏とならうなり。諸法をば多宝に約し、実相をば釈迦に約す。是又境智の二法なり。多宝は境なり、釈迦は智なり。境智而二にしてしかも境智不二の内証なり。此等はゆゝしき大事の法門なり。煩悩即菩提・生死即涅槃と云ふもこれなり。まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを、煩悩即菩提・生死即涅槃と云ふなり。生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり。普賢経に云はく『煩悩を断ぜず五欲を離れず、諸根を浄むることを得て諸罪を滅除す』と。止観に云はく『無明塵労は即ち是菩提、生死は即ち涅槃なり』と。寿量品に云はく『毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめん』と。方便品に云はく『世間の相常住なり』等は此の意なるべし。此くの如く法体と云ふも全く余には非ず、ただ南無妙法蓮華経の事なり」。(御書597n)

(住職の講義)

 今日拝読のところは、日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経の法体の一番大事なところをお示しになっていらっしゃるわけであります。大聖人様の仏法は十方三世諸仏の師範となり、また一切衆生をことごとく即身成仏の境界に入らしめる唯一の大法であるという確信を持っていただきたいと思います。
  皆様方は、朝晩の勤行のときに、法華経の『方便品』を読誦されますが、その始めのところに「諸仏智慧甚深無量(諸仏の智慧は、甚深無量なり)」というお経文がございます。この法華経は、釈尊がだれのために説かれたのかと申しますと、別しては末法に御出現の大聖人様のために説かれたのであります。また、広くは私たち末法の衆生のために説かれたのが法華経であります。
  大聖人様は『法華取要抄』に、
  「法華経は誰人の為に之を説くや。乃至 末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり」(御書734n)
と仰せでございます。
  「経に云はく『諸仏智慧甚深無量』云云」。法華経の『方便品第二』のお経文に、あらゆる仏様の智慧は、縦に甚だ深く極理の奥底に達している。また横に広大な広がりを持ち、法界全体に及んでおり量り知れない、ということが説かれております。
  「此の経文に諸仏とは十方三世の一切の諸仏」、このお経文に「諸仏」とあるのは、東西南北・四維(北西・南西・北東・南東)・上下の十方の方角におられる全ての仏様、および過去・現在・未来の三世にお出ましになる一切の仏様を指しております。
  「真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀、乃至諸宗諸経の仏菩薩、過去未来現在の総諸仏、現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて、次に智慧といへり」。すなわち真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀仏、その他の諸宗諸経の仏菩薩、過去未来現在のあらゆる仏、現在の釈迦仏等を諸仏と説きあげて次の文に「智慧」と言われたのであります。
  「此の智慧とはなにものぞ、諸法実相十如果成の法体なり。其の法体とは又なにものぞ、南無妙法蓮華経是なり」。その智慧とは何かと言いますと、それは『方便品』に説かれております「諸法実相」と「十如果成」の法体であります。つまり十方三世の諸仏は「所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」という十如実相の法理を悟って、成仏得脱を果たすことができたわけであります。
  今末法の私たちは、大聖人様の南無妙法蓮華経の御本尊様を信受して、お題目を唱えることによって、一人ひとり皆、仏様の境界へと転換して、即身成仏を果たすことができるということも、大聖人様の御本尊様に、十如実相の文を基本にした十界互具・一念三千の法門、原理・働きが全部具わっているからです。したがって、大聖人様は、
  「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書685n)
と仰せになり、また、
  「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(御書523n)
とも仰せになっており、御本尊様にそれだけの功力と原理が具わっているのであります。
  私たちが大聖人様の本門の本尊を信じて、本門の題目を唱えるとき、大聖人様の仏界の命と私たちの九界の命が互いに境智冥合し、師弟一如して一体となり、大聖人様の大慈大悲に包まれて、即身成仏の境界を得ることができるわけであります。
  末法の私たちには、大聖人様が建立された御本尊が主体でありますけれども、その教義の根底となるべきものは『方便品』の十如実相の文からきているのであります。法界には必ず十界がある。十界には必ず十如がある。十如は必ず三世間(衆生世間・国土世間・五陰世間)に亘っている。これが十界互具、一念三千という法門になっているのでありますから、その根底には十如実相の原理があるわけであります。
  皆様方が、今、平成という時代に命を得て、家庭を築いて生活を営んでいるということも、そこにやはり、相性体力作因縁果報等の十如の働きがあるわけです。
そういうあらゆる実相、十如が本末究竟して一貫した一つのものとなるという、その根本の法体とは何かと言うと、それは南無妙法蓮華経であります。大聖人様が悟られ、御本尊様にお顕しになられたところの南無妙法蓮華経に外なりません。
  「釈に云はく『実相の深理本有の妙法蓮華経』と云へり」。「実相の深理本有の妙法蓮華経」とは『諸法実相抄』(御書665n)『日如御前御返事』(同1388n)『御講聞書』(同1840n)等にも同様の文が記されていますが、典拠は不明であります。法華経の迹門において、釈尊は、法界の深い真理を十如実相として説き顕わされたのでありますから、これは本有の妙法蓮華経、つまり本来具わっている、ありのままの妙法蓮華経と言うことができます。このところまでは十方三世の諸仏の師範となるところの妙法蓮華経についてお説きになった御文であります。
  「其の諸法実相と云ふも、釈迦多宝の二仏とならうなり。諸法をば多宝に約し、実相をば釈迦に約す。是又境智の二法なり。多宝は境なり、釈迦は智なり。境智而二にしてしかも境智不二の内証なり。此等はゆゝしき大事の法門なり」。法華経の迹門において「諸法実相」と説かれておりますが、これを御本尊様の相貌に譬えますと、塔中の釈迦・多宝の二仏並座の姿を表しており、境智冥合して釈迦如来と多宝如来が並んでいらっしゃる、その姿に拝することができる。諸法をば要約して多宝如来の姿をもって表し、実相をば要約して釈迦如来の姿をもって表している。これまた境智の二法、すなわち仏様の悟りの対境としての境と、それを悟られた仏様の智慧を表していると言えるのであります。多宝如来は境を表し、釈迦如来は智を表しております。境智は二つでありますけれども、しかもまた内証においては境智不二、一体のものであります。これらは容易でない大事な法門であります。
  「煩悩即菩提・生死即涅槃と云ふもこれなり」。煩悩、衆生を煩わし悩ますところの妄念と、菩提、仏の悟りの境地とは全く正反対のものでありますが、しかし煩悩即菩提、煩悩のあるところに、そのまま菩提に導く基があるのであります。
  また生死、生死を繰り返し流転する迷いの世界と、涅槃、理想の悟りを得た静寂な境地とは、やはり正反対のものでありますが、しかし、生死の迷いの世界の中にこそ、涅槃という悟りの境地が見出せるのでありまして、仏様の深い智慧をもって観察すれば、ともに一体不二の関係にあることが解るのであります。
  地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏という十界にも、それぞれまた十界が具わっているという十界互具の原理があるからこそ、みんなが即身成仏を果たすことができるわけであります。 大聖人様にも地獄から仏界までの十界の命があります。私たち凡夫の命にも、地獄から仏界までの十界の命が具わっているわけであります。
つまり、私たちの命にも仏性という種を持っているからこそ、それを発芽させて仏の命へと開覚させていくことができるのであります。

 皆様方が御本尊様の御前に端座して、御本尊様を純真に信じて、自ら唱えるお題目の力、その信力・行力によって、大聖人様の仏力・法力を頂く。そうして、私たちは即身成仏ができるのであります。ですから、どんなに御本尊様が勝れ、教義が尊くても、信ずる者のしっかりとした信心修行の実践が伴わなくては、成仏はできないわけであります。

例えば真冬は寒さの厳しい季節であります。しかし、この真冬の季節の中に、ちゃんと暖かい春を迎える装いが整えられているのであります。ですから冬も単なる寒い厳しい季節であるだけではありません。そこにやがて来る春の喜びが一体となって含まれているわけであります。

 それと同様に、人間がどうしても逃れることのできない煩悩の中にも、ちゃんと菩提の芽が育ってきているわけであります。煩悩を離れて菩提はありません。妙法の功徳というものも、諸難を離れて功徳はない。生老病死を離れて功徳はない。生老病死の中に功徳が発芽してくるわけであります。生老病死を乗り越えていく、その生老病死の中に、自ずから妙法の蘇生の功徳が顕れてくるわけであります。苦難の中に喜びの発芽があるのであります。苦労の中にこそ、幸せの第一章があるというわけであります。煩悩即菩提、生死即涅槃ということも、そういうことを言っているのであります。

 「まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを、煩悩即菩提・生死即涅槃と云ふなり。生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり」。まさしく男女の交わりの時に南無妙法蓮華経と唱えることを、煩悩即菩提、生死即涅槃というのであります。
  そもそも人間の男女の交わりというものは、人間ばかりではなく、あらゆる生きとし生けるものの大事な働きであります。虫の世界でも鳥の世界でも獣の世界でも、男女、雌雄の営みがあって、新しい生命を産むわけであります。そのことによって生命が繋がり、社会が維持されていくという大事な働きであります。  男女の交合は、六道の働きのうえに現れた一つの姿でありますけれども、そのなかに煩悩即菩提、生死即涅槃の原理が具わっているわけであります。その妙法のもとにおける煩悩は、煩悩を超えて菩提へと導くことができる。生死を超えて涅槃へと導くことができるのであります。
  ですから、私たちが妙法の人を送るところの営み、その生死の別れは、決して悲しい辛い別れではないのだということです。みんな、御本尊の功徳を頂戴して、即身成仏の境界に立ち至り、仏界の命へと転換できる尊い営みであるということを知っていただきたいと思います。
  生死の当体は、永遠に不生不滅であると悟るより外に、生死即涅槃という意義はないのだということであります。

 「普賢経に云はく『煩悩を断ぜず五欲を離れず、諸根を浄むることを得て諸罪を滅除す』と」。法華経の結経である『普賢菩薩行法経』(法華経610n・624n)には、如何にしたら煩悩を断つことなく、また五欲(眼・耳・舌・身・意の五官によってもたらされる色・声・香・味・触という五種の情欲)を離れずして、すべての器官・能力を清浄にし、もろもろの罪を減らし除くことができるのでしょうか、という阿難等の質問に対して、釈尊は、十方三世諸仏を出生した種である大乗経典(妙法蓮華経)を受持すべきことを説かれているのであります。

 「止観に云はく『無明塵労は即ち是菩提、生死は即ち涅槃なり』と」。天台大師は『摩訶止観』(巻第一上)に、「無明塵労は即ち是菩提、無集にして断つ可し。辺邪は皆中正、無道にして修す可し。生死は即涅槃、無滅にして証す可し」ということを説かれておりまして、特別に作為することなく、煩悩即菩提、生死即涅槃に至ることを言われております。

 「寿量品に云はく『毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめん』と」。法華経『如来寿量品第十六』の『自我偈』の最後のお経文に、仏様は、常に自ら、どうしたならば衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することができるであろうかと絶えず念じておられる、ということが説かれております。仏様は、私たちに対して、この上ない妙法蓮華経の大仏道に導かれて、一日も速く仏様と同じ境界に至ることを願い、教導してくださっているわけであります。

 「方便品に云はく『世間の相常住なり』等は此の意なるべし。此くの如く法体と云ふも全く余には非ず、ただ南無妙法蓮華経の事なり」。また法華経『方便品第二』(法華経119n)には「是の法は法位に住して 世間の相常住なり」ということが説かれております。私たちは今日、無常の世間に生きているように見えますけれども、そうではなくて常住の大地の上に生きているわけであります。自分の命は今世だけのものと思ってはいけません。未来があります。三世常住の命を生きているという確信を持っていただきたいと思います。
  四季の移ろいは儚いように見えますけれども、その四季を通して自然界は三世常住の姿を現しているわけであります。ですから世間も今世だけの儚いものとしてしか捉えることができないということではいけません。三世常住ということが世間の実相であります。実相を離れて仏道はあり得ません。そのように法体ということも全く別のことではありません。
  大聖人様が悟られ、建立された南無妙法蓮華経の大法のなかに、仏様の智慧も、境智冥合の内証も全部、根源の妙法として、御本尊様に包含されているということを銘記して、大聖人様の弟子信徒として、日蓮正宗の尊い信心を貫いていっていただきたい。そうして、大聖人様が建立された三大秘法ほど尊いありがたい教えはないという強い確信のもとに、どうか自他共の幸せを願って、さらなる折伏弘通の精進をお願いしたいと思います。大変お寒いところをお寺に御参詣いただきまして、ありがとうごさいました。

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