平成19年4月1日発行 高照山 第232号
妙光寺執事  内海雄幸
南部六郎殿御書
文永8年5月16日 50歳 

「十輪経に云はく『若し誹謗の者ならば共住すべからず亦親近せざれ。若し親近し共住せば即ち阿鼻獄に趣かん』云云。栴檀の林に入りぬれば、たをらざるに其の身に薫ず。誹謗の者に親近すれば所修の善根悉く滅して倶に地獄に堕落せん。故に弘決の四に云はく『若し人本悪無けれども悪人に親近すれば後に必ず悪人と成りて悪名天下に遍し』云云」(御書463n)

(通釈)
 大乗大集地蔵十輪経には「もしその人が正法を誹謗する人であるならば共に住むことも、親しく交わることもいけない。もし親近し、共住すれば阿鼻地獄に向って行くことになるであろう」と説かれている。たとえば栴檀の林に入れば枝を手で折らなくとも芳香が身に薫る。そのように正法誹謗の者に近づけば今まで積んできた善根をことごとく無くして地獄に堕ちることになるであろう。故に妙楽大師は弘決の四に「もし人にもともと悪がなくとも、悪人に親近すればのちには必ず悪人となって、悪名が天下に広まることになる」と記している。
(解説)
 この御文は悪知識に親近する事の恐ろしさを説き、親近することを誡めたものです。涅槃経に「悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ」と説かれております。悪知識を甘く見たり、警戒しないと、それが因となり、おのずと悪知識に染まってしまうのです。
  その悪知識を脱し、また救う方法は一つしかありません。それは折伏であります。末法の悪知識に染まったあらゆる宗教思想を知り、打ち破っていく信・行・学を致しましょう。
(お話)
 3月度の広布唱題会に当たり、ただ今は皆様方と共に読経唱題を申し上げ、謹んで妙光寺支部・正道講支部それぞれの折伏誓願目標、ならびに皆様方お一人おひとりの誓願目標の達成を御祈念申し上げた次第でございます。
  本日の拝読御書は、日蓮大聖人様が、甲斐の国の南部三郷の地頭で、波木井郷の身延に住んでいた南部六郎実長に与えられた御書の一節であります。この御文の直前に、 「眠れる師子に手を付けざれば瞋らず、流れにさをゝ立てざれば浪立たず、謗法を呵責せざれば留難なし。『若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責せずんば』の置の字ををそれずんば今は吉し、後を御らんぜよ、無間地獄は疑ひ無し。故に南岳大師の四安楽行に云はく『若し菩薩有って悪人を将護し善人を悩乱し正法を敗壊せば、此の人は実に菩薩に非ず。外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと。其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん』云云」。
という御文がございます。したがって、大聖人様は、たとえ如何なる難があろうとも、謗法者を見たならば、これを捨て置かずに必ず呵責しなければならないということを、『涅槃経』巻第三の「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」というお経文と、南岳大師慧思の『法華経安楽行義』にある「若し菩薩有って悪人を将護し治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず」等の文を引かれて、折伏することの大切さを御教示なさっておられるのであります。
  そうして、次に『大方広十輪経』(巻第五、衆善相品第七)の「応に大乗経典を誹謗すべからず。乃至一句一偈を若し誹謗する者ならば共住すべからず亦親近せざれ。若し親近し共住せば即ち阿鼻獄に趣かん」というお経文と、妙楽大師が天台大師の『摩訶止観』(巻第四上)を解釈された『止観輔行伝弘決』(第四之三)の「増一に云はく『悪知識と愚と共に従事すること莫かれ。当に善知識と智者とに交通すべし。若し人本悪無けれども悪人に親近すれば後に必ず悪人と成りて悪名天下に遍し』。善知識は此に反す、是の故に応に親近すべし」という文を引かれております。この『弘決』の文は、『増壱阿含経』(巻第四十六、放牛品第四十九分別誦)のお経文を引用されたものでありまして、悪知識と親近することを戒め、善知識に親近することを勧められた御文であります。
  釈尊は五十年間にわたって、さまざまな教えをお説きになりましたが、その本懐は法華経にあるわけでございます。その法華経に説き明かされる根源の久遠元初の教えというものを信受することができないで、小乗経あるいは権大乗経などの、念仏であるとか真言であるとか禅宗などに執着している人のことを、通常は謗法の人と申しますが、これらの人びとは自らのみならず、他の人の成仏の種子をも断じてしまうという意味で、悪知識あるいは悪友というふうに見なされるわけであります。なぜならば、法華経の『譬喩品第三』に、
  「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の仏種を断ぜん」(法華経175n)
と説かれているからであります。また同品に、
  「悪知識を捨てて 善友に親近する」(法華経182n)
というお経文があることを忘れてはならないわけであります。法華経に説かれている善友、善知識とは、別しては日蓮大聖人様のことでございます。悲しいかな、この法華経の極理と、大聖人様を末法の御本仏と拝す
ることができず、いつまでも念仏宗やら真言宗やら、そのほか誤った宗教、思想であるところの悪知識にたぼらかされて、それらの邪教に執着している人びとは、永久にそのまま仏と成ることができず、その謗法の罪障というものは、ますます深くなっていくわけであります。
  日蓮大聖人様は『開目抄』に、
  「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(御書572n)
と仰せられているのは、まさにそのことでございます。
  しかしながら、日蓮大聖人様は「悪知識」ということについて、ただ一方的に悪いものだと、断じているわけではありません。また独断的に、ただ近付かなければいいのだと、そうおっしゃっているわけでもありません。
  大聖人様は『種々御振舞御書』に、
  「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり」(御書1063n)
と仰せられまして、釈尊にとっては提婆達多という釈尊を迫害した人、この人は悪知識以外の何者でもないわけでありますけれども、実はその提婆達多こそが第一の善知識だったと、このように御指南あそばされているわけでございます。
  今の世間一般の例を見ましても、人を良くさせたり、あるいは繁栄させたりするのは、仲間や味方よりも、むしろ強敵と思う人、あるいは、さまざまな困難によってなされるのであり、それらによって成長させられることが多いわけであります。そういった困難などを乗り越えることによって、さまざまなことを達成するということであります。
  大聖人様がこの御文において何を言わんとしているかと申しますと、最大の敵対者、悪知識こそが、かえって自らを成長させるための実は善知識であるとの一大確信を表明されているということも、言えると思うわけでございます。
  このことは、どういうことかと申しますと、大聖人様を常に亡き者にしょうとした当時の権力者や、あるいは邪宗教の僧侶たちが、実は最高の善知識であるというふうに仰せでございます。なぜならば、彼等に第六天の魔王が巣くって、いろいろな妨害をしなかったならば、また自ら真実の姿も容易に明かすことができなかったからである。彼等を恨んだり、憎んだりすることは全くなく、むしろ彼等からの仕打ちに法悦さえ感じておられたわけでございます。
  さて、これを私たち自身のことに当てはめてみますと、自らが間違っていると分かっていても、他人から指摘をされますと、不愉快になってしまう。また指摘された内容が正しいものであって、理性としては承知できたとしても、感情の面では納得できなかったり、あるいは、そういうふうに言った人に対して批評をしてみたり、逆恨みしたりするということがよくあるわけでございます。
  これが現在一番多く現れている人びとというのが創価学会の人たちであります。これが一般世間の問題だけならよろしいわけでありますが、信心の面で、例えばだれかに指導されたような場合に、このような感情になったら大変であります。そのようなことがないようにするためにも、日々の勤行というものを中心にして、絶えず御本尊様の御功徳によって心を洗い、順境のときはもちろん、逆境にあるときこそ、己を錬磨するときと心得て、精進していくことが大切であります。
  よく考えてみますと、この末法濁悪の世におきまして、悪知識から本当に逃れるということは不可能でございます。大聖人様のおっしゃるのは、この避けることのできない悪知識の恐ろしさをまず知り、そして、それと立ち向かう人間としての強さと成長を通して、折伏弘教に励みなさいということを仰せになっているわけでございます。  皆様方におかれましても、この月において、さまざまな魔、あるいは悪知識、そして宿業等々を打ち破り、信行学にいよいよ磨きをかけていただきまして、折伏を通して充実した1カ月だったというふうに、月末には思えるように、共々、精進をいたしたいと、このように申し上げる次第でございます。本日の御参詣まことに御苦労様でございました。(平成19年3月1日 広布祈念唱題会において)

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