平成19年5月1日発行 高照山 第233号
妙光寺執事  内海雄幸 代講

「彼岸会の意義」

 本日は「彼岸会の意義」と題しました御住職のパンフレットを本に少々お話を申し上げます。
  「彼岸とは梵語のパーラミータ(波羅蜜)という言葉の訳語で、悟りの境地、究竟、解脱、涅槃への到達成就を意味し、私共の住んでいる裟婆世界、煩悩、業、苦にさいなまれる我身を此岸に譬え、煩悩、業、苦の三道を、また衆生の苦しみや悩みや大難を、法身、般若、解脱へと転ずる事、つまり成仏の境界に至る事を彼岸に譬えるのです。
  その煩悩を菩提へと転じ顕す大法、生死の苦を涅槃へと導く大船、裟婆の忍土を寂光土へと変える教えが妙法蓮華経の大白法であります。
  これはまさに妙法独自の境界であり、大聖人の仏法は念仏宗の様な、ありもしない架空の西方極楽の別世界、キリスト教の如き神の国のおとぎ話を説くのではなく、現実の我が身心を六根清浄の仏身へと変え、三世の人々を非情有情共に成仏せしめ、此の国土、我が家をして常寂光土たらしめる真実の一切衆生救済の大仏法なのです。
  大聖人は煩悩即菩提の功徳について、
  『所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり(中略)功は幸と云う事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云うなり。功徳とは即身成仏なり、又六根清浄なり」(『御義口伝』御書1775n)
と仰せになっておられます。
  又生死即涅槃について、
  「無始より以来我が身中の心性に迷ひて生死を流転せし身、今此の経に値ひ奉りて、三身即一の本覚の如来を唱ふるに顕はれて、現世に其の内証成仏するを即身成仏と申す。死すれば光を放つ、是外用の成仏と申す』(『一念三千法門』御書109n)
と説かれています。
  次に裟婆即寂光について、
  『されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても侯へ、常寂光土の都たるべし。我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事、うれしとも申す計り無し申す計り無し』(『最蓮房御返事』御書588n)
と示されております。いま日蓮正宗に於ける彼岸の本義は、まず生きている私たち一人一人が自分をはぐくみ、即身成仏して幸せな境界を開き、その御本尊の力、妙法の功徳をもって過去の一切の人々を追善供養し、その塔婆と唱題の功徳が未来の福徳果報冥加となって輝き、畢竟、妙法による正しい最善の信心修行が、一家の過去と現在と未来の三世を救うという広大な意義を含んでいるという事であります。
  大聖人は塔婆供養の意義と功徳について、
  『我等衆生死するとき塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり』(『草木成仏口決』御書522n)
  『丈六の卒塔婆をたてて、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生まれん。況んやかの卒塔婆に随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼の卒塔婆の功徳によりて、天の 日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つづみをうてばひゞきのあるがごとしとをぼしめし侯へ』(『中興入道御消息』御書1434n)
と御教示遊ばされております。
  大御本尊の力用、題目の功力、塔婆回向の功徳は十方の法界を救い、三世の人々を救うのであります」。
世間でよく「菩提を弔う」ということを言いますが、この菩提を弔うということは、例えば法事をするとか、葬儀をするとか、そういったときにしか使用されないようですが、仏教本来の意義において、この菩提ということは、信心修行ということでございます。すなわち「上求菩提、下化衆生」と申しまして、天台大師の『摩訶止観』巻第一上にも「上求仏道、下化衆生発菩提心」という言葉で説かれております。これは大乗における菩薩が、衆生の無辺なるを度せんと誓願し、煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し、法門の無尽なるを知らんと誓願し、無上菩提を証せんと誓願する四弘誓願(御書1409n)ということにも通ずるものであります。つまり、上は仏様の境界にできるだけ近付くように努力をし、下はまだ正しい教えを信じていない人たちに教えを広く被らしむということでございます。 言葉を換えて言えば、信心修行して、また折伏を行ずることが菩提でございまして、信心即生活の実践ということになるわけでございます。よく信心即生活という言葉を申しますと、生活の傍らに、あるいは生活の片手間に信心をすることと思っている方がおられるかも知れませんが、そうではありません。人間は、何事につけても優先順位をもとに毎日毎日の生活を送っていると思います。皆様方も朝起きて、まず何をするか。一番最初に、いきなり外出用の洋服を着だす人はいないはずでございます。まず顔を洗うとか、あるいは歯を磨くとか、それぞれ優先順位というのは人によってまちまちでございますますけれども、そういった生活の細かいところまで、信心というものをまず基準に置いて、それを根本にして、生活を行っていくということが、信心即生活でございます。ですから、逆にもし生活の片手間に信心をするということになると、本来の正しい功徳というものは現れてまいりません。即身成仏の境涯を自分自身の人生のなかに具現していていくということが真の功徳でございます。
その即身成仏の境涯とは、どういう境涯かと申しますと、どんな困難があっても、必ずそれを自分自身で乗り越えるとことができるという境涯でございます。 皆様方には大勢の御先祖があって、そのお陰で今の皆様方の命があるわけでございますが、特に、お父さん、お母さん、お祖父さん、お祖母さんたちが、皆様方に望んでいることは何でありましょうか。それは、遺された子孫の皆様方が毎日の生活を明るく楽しく元気に、充実した人生を送るということを望んでいるはずでございます。そういった人生は、この信心即生活を通して、はじめて成し遂げられるものであります。
  一見すると今は別に困ったこともないし、だから慌てて信心する必要もないと、そんなふうに思っていらっしゃる方もいるかも知れません。ところが仏法においては、人間には宿業というものがあるということを説いているわけでございます。今は何もなくても、自分自身の宿業というものは何時どこでどのような形で、現れてくるか分からない。もし、そういうものが現れてきたら、そのときに信心をしたらいいじゃないかと思うかも知れませんが、そうではありません。あらかじめ、そういった宿業というものが出てくる、すなわち困難に遭遇したときに、それを克服するだけの命になっていなければ、そういった困難を乗り越えることはできない。ですから、普段からの信心即生活を心掛けていく。その積み重ねが、とても大事になってくるわけでございます。
  御法主日如上人猊下は、
  「大聖人は『衆生心身御書』に、
  『つゆつもりて河となる、河つもりて大海となる、塵つもりて山となる、山かさなりて須弥山となれり。小事のつもりて大事となる』(御書一二一六n)
  と仰せであります。
  大事を成すには小事を疎かにしてはなりません。常日頃の真剣な唱題と、倦まず弛まず折伏を行じ、本年を勝利していくところに、必ず目的達成の大事が 成就することを確信する次第であります」(大日蓮719号5n)
と仰せでございます。
  信心は、やはり普段から、コツコツ、コツコツと陰ひなたなくやっていくことが大切なのです。本当に真面目に信心を貫いて、いざ何かあったときに、命の強さ、輝きというものを発揮する。そういうことを教えているのが日蓮大聖人様の教えであります。また、そういうことが可能な信心こそが、大聖人様の御本尊様を信ずることなのだ、ということを知っていただきたいと思います。そのうえで、それぞれのお宅において、五座の回向においての追善供養、あるいは回忌等においての追善供養、そうして、お彼岸やお盆のような機会に追善供養をして、先祖に回向するところに、御先祖と子孫である皆様方一人ひとりの成仏が、同時に叶えられるのだということを、この「彼岸会の意義」において御住職がおっしゃっておられるわけでございます。
  どうか、そういった意味で、これからも信心即生活の実践が自分自身、本当にできているかどうかということを見つめ直し、一生懸命、皆様方の人生を歩んでいっていただきたい。そうして幸福の境涯を築き上げていっていただきたいということを申し上げまして、今日の御挨拶に代えさせていただく次第でございます。本日の御参詣まことに御苦労様でございました。
(平成19年3月21日 春季彼岸会法要において)

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