平成19年5月1日発行 高照山 第233号
高橋 成永

上品の供養

 みなさま、こんにちは。只今は妙光寺檀信徒の舟木将之さんの心暖まる体験談、ありがとうございました。本日参詣の皆様方も気持ちも新たに菩提心を発されたことと存じます。
  さて、昔読んだ本に「芝生には土が必要、そして、人間の土とは家族」ということが書いてありました。また「父は照り  母は涙の雨と降り 同じ恵みに 育つ撫子」という歌もございますが、子供というものは、どの世界においても親の恩恵によって成長するものだと思います。
  たしかに幼少の時に親に先立たれる子供は恨みの至りに思い、老いた時に子供に先立れる親は嘆きの至りに思うでしょう。
  大聖人様は『十字御書』に、
  「我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候」(御書1551n)
と仰せられておりますが、自分を産み、今日まで育ててくれた両親に対して、その恩に報いるということは誠に大切なことであり、また昔から人の守るべき道徳の一つとして、「孝養」または「孝行」ということがよく言われます。
  この「孝養」「孝行」ということを、仏教では「供養」と言いますが、一言で「供養」申しましても、そこには上中下の供養がございます。
  そもそも道徳というものは、現実の社会に、善良な人間として生きていくため、自らを律し、互いに守るべき社会的な規範のことを言います。
  したがって、社会生活上の正と不正、善と悪などの分別を心得て、自らの良心にも社会的な規範にも、恥じることの無いようにして行くということであります。
  しかし、この道徳というものは現実に生きている人間の一応の規範であって、それによって、先祖を救い、自らの罪障を消滅し、さらには未来の子孫の幸せをもたらす等という力はありません。これは仏教のように過去・現在・未来の三世の因果を説かないゆえであります。このことから、道徳における一般仏教的な孝養は「下品の供養」と言います。
  ただし、仏教と言っても、そこには様々な宗旨・宗派がございます。
  そして皆様も御存知のように、インドのお釈迦様の一代五十年の御教導の中で、法華経以外、五千・七千とも言われるぼう大な経典がありますが、その小乗教、爾前権教においては、声聞・縁覚の二乗の成仏、また女人の成仏は一切許されておらず、提婆達多のように、お釈迦様の弘教に敵対し、さらに命を奪って替わりに新しい教団を起こそうとたくらんだ、誹謗正法の悪人の成仏は、なおさら許されておりませんでした。
  このように、仏教と言っても法華経以外の教えは全て有名無実で不完全なものであり、この法華経以外の宗旨・宗派によるもので「孝養」することを「中品の供養」と言います。要するに「中品の供養」というものは差別があり、すべての人を救うことはできないということであります。
  では、最高最上の「上品の供養」というものはどういうものでしょうか。
  そもそも、この法華経というものは、お釈迦様の御化導の究竟の本懐でありまして、それまでは許されていなかった、二乗や女人、さらには悪人の成仏まで、初めて成就することができたお経であります。
  ですから、まずはこの法華経、妙法蓮華経の大御本尊様を信じるということが肝要になるのであります。
  大聖人様は『盂蘭盆御書』に、
  「法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ。乃至代々の子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生三悪道をはなるゝのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ。故に法華経の第三に云はく『願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』」(御書1377n)
と仰せになっております。
  この正法を行ずる大善こそ、自ら仏の境智に至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫とを救う「上品の供養」ということなのであります。
  つまり、妙法蓮華経の大御本尊様を信じ、勤行唱題を怠らず行じていくことにより、三世に亘る一切の人々を救済する「上品の供養」となるわけでございます。
  どうか本日参詣の皆様方も今一度、親への報恩ということを心に留め、信心修行に邁進されることを念願し、わたくしの話とさせていただきます。御静聴ありがとうごさいました。
(平成19年4月1日 「春の会」において)

戻る