平成19年6月1日発行 高照山 第234号
妙光寺執事  内海雄幸
経 王 殿 御 返 事 (二)
文永十年八月十五日 52歳 

  但し御信心によるべし。つるぎなんども、すゝまざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼうたるべし。
  日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給ふ。
  経王御前にはわざはひも転じて幸ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。「充満其願、如清涼池」「現世安穏、後生善処」疑ひなからん。
  又申し候。当国の大難ゆり候はヾ、いそぎいそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし。法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあり。たヾ歎く所は露命計りなり。天たすけ給へと強盛に申し候。浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。あなかしこ、あなかしこ。    八月十五日    日 蓮 花 押
経王御前御返事(御書685n)

(講義)

 今日、拝読の御文は、お守りとなる御本尊様とは一体、何なのか、その功徳の根本について述べられております。御文に入りますと、
  「但し御信心によるべし。つるぎなんども、すゝまざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼうたるべし」。但し御信心によるのである。剣なんども勇気のない人のためには何の役にも立たない。法華経の剣(南無妙法蓮華経の御本尊)は信心の殊勝の人が用いる時こそ役に立つのであり、これこそ鬼に金棒なのである。 ただ御本尊を持っている、御安置しているだけでは御守護はありませんよ、ということでございます。御自宅の御本尊様に信を起こして、勤行唱題、折伏に励むときに、獅子王のごとき、なにものをも恐れることのない人生を歩むことができる。御本尊様を根本として、信心即生活を実践している人が信心の健気な人であり、法華経の剣を正しく用いて、どんな困難にも立ち向かうことができる。まさに「鬼に金棒」という、ただでさえ勇猛な鬼に、さらに頑丈な金棒を持たせたように、強い上にさらに強くなることができるというわけであります。
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく『顕本遠寿を以て其の命と為す』と釈し給ふ」。この御本尊は日蓮が魂を墨に染めながして書きしたためたものである。信じて行きなさい。釈迦仏の本意は法華経である。日蓮が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるものはない。妙楽大師の『法華文句記』に「本地の遠寿を顕すことを以てその根本と為す」と釈されている。
  すなわち、この御本尊様は日蓮大聖人様の御当体、なかんずく、魂を書き表されたものでございます。この御文を深く拝しますと、大聖人様は御本仏であるということが分かるのです。ところが身延の日蓮宗等々では非常に軽く見て、「お曼荼羅本尊というのは日蓮聖人が自分の魂を書いたものだから尊いことじゃ。しかし、本当の仏様はお釈迦様だから、南無妙法蓮華経の本尊は、だれでも自分の魂と思って書いてもいいんじゃないか」ということで、お題目の真下に自分の署名と花押を書いているのです。本来、御本尊様は大聖人様から唯授一人の血脈相承を受けられた御法主上人しか認めることができないものであります。ところが、他の日蓮門下には血脈相伝というものがありませんし、また大聖人様を仏様でなくて「日蓮大菩薩」と言って、一段低く見ている。尊敬はするけれども、それほど大したことはないから、ある程度の位の僧侶になれば、本尊を書いてもいいという話になってしまう。
  私共は大聖人様がおっしゃったままに、大聖人様を末法の御本仏と拝し、御本尊様を仏様の御魂と見るのが、我々の信仰の在り方ではないかと思います。
  妙楽大師という方は、中国の天台宗の第9祖に当たる方でございますが、この方が、天台大師の説かれた『妙法蓮華経文句』を注釈されたのが『法華文句記』でございます。その『文句記』巻第十下「嘱累品を釈す」の下に、「然るに此の経は常住仏性を以て咽喉と為し、一乗妙行を以て眼目と為し、再生敗種を以て心腑と為し、顕本遠寿を以て其の命と為す」と述べられています。つまり、法華経は、その中心である『如来寿量品第十六』において、実は釈尊は久遠の大昔に悟りを開いて仏と成り、以来、未来にわたっても常に衆生に対して説法教化をなされる。そういう永遠の生命を持っておられるということを明らかにされているのであります。この久遠の本地と永遠の生命とは、仏様だけのことではなく、我々衆生も同様であるという、その「顕本遠寿」こそが、実は法華経の命なのでございます。
  「経王御前にはわざはひも転じて幸ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。『充満其願、如清涼池』『現世安穏、後生善処』疑ひなからん」。経王御前にとっては今の禍も転じて幸いとなるであろう。心して信心を奮い起こして此の御本尊に祈念なさい。何事か成就しない事があろうか。法華経の薬王品には「其の願いが充満して清涼池の如し」とあり、薬草喩品には「現世は安穏にして後の世に善処へ生まれる」とある。此等の経文の通りになることは疑いないところである。
  法華経の『寿量品』において、我等衆生も仏様と共に永遠の生命を持っていることが明らかになったのでありますから、経王殿の病も一時的な禍であって、この妙法の御本尊様に向かって真剣な信心をいたせば、必ず病を癒して、幸いの境涯を得ることができるでしょう。
  法華経の『薬王菩薩本事品第二十三』には「此の経は能く、大いに一切衆生を饒益して、其の願を充満せしめたもう。清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者に満つるが如く」(法華経535n)とあります。法華経(御本尊)の功徳によって、清涼の池が喉の渇きを癒し満足させるように、幸いを得ることができるということであります。また法華経の『薬草喩品第五』には「是の諸の衆生、是の法を聞き已って現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け、亦法を聞くことを得」(法華経217n)とあります。私達が法華経を聞く(御本尊を信仰する)ことによって、現在の生活も安穏に、来世もまた妙法に縁する善い環境に生まれることができるということであります。
  「又申し候。当国の大難ゆり候はヾ、いそぎいそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし。法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあり。たヾ歎く所は露命計りなり。天たすけ給へと強盛に申し候。浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。あなかしこ、あなかしこ」。また申し上げましょう。佐渡の国への流罪という大難が放免されたならば、大急ぎで鎌倉へ上りお目にかかりましょう。法華経の功徳力を思うと不老不死は目前にある。ただ歎くところは経王御前の露に及ばない命だけである。天助け給へと強盛に祈っております。浄徳夫人や竜女の信心の跡を継ぎなさい。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。あなかしこ、あなかしこ。
  大聖人様の御在世、鎌倉時代においては、いったん佐渡島に流罪になったからには、一生帰れないかも知れないということでした。順徳上皇でさえ、承久の乱によって佐渡に流され、彼の地で亡くなっております。
  そういう状況のなかで、大聖人様は佐渡の流罪の赦免は必ずあるということを確信されて「当国の大難ゆり候はヾ、いそぎいそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし」と仰せられております。これは、大聖人様が仏様の御境涯において仰せられたお言葉と拝せられます。
  法華経の『薬王品』に「此の経は則ち為れ、閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞きくことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」(法華経539n)と説かれています。妙法の御本尊を信仰する者は諸天、諸菩薩の守護を得て、病を克服し、不老不死の永遠の命に安住することができるということであります。
法華経の『妙荘厳王本事品第二十七』には、浄徳という妙荘厳王の夫人がいて、浄蔵・浄眼という二人の子がありました。この二子が仏道を修行し、雲雷王宿王華智仏が法華経を説かれるのを、まず母の浄徳夫人を誘い、次いで外道を信受していた父王を誘って共に聴聞させ、菩提心を発させたのであります。そうして霊鷲山の会座においては、妙荘厳王は華徳菩薩、浄徳夫人は光照荘厳相菩薩、浄蔵・浄眼の二子は薬王菩薩・薬上菩薩となっていたということでございます。
  また法華経の『提婆達多品第十二』には、文殊師利菩薩が海中において法華経を説いた教化によって、八歳の竜女が即身成仏したことが明かされております。 経王殿の母親も、経王殿も、浄徳夫人や竜女のように、妙法の御本尊を信仰して成仏の功徳を得なさい、ということを、大聖人様は仰せられて、激励なさったわけでございます。
  どうか本日御参詣の皆様方は、大聖人様の仰せのまま、一家一族挙げての強固な信心を築き上げるために、勤行唱題、折伏に励んでいただきたいということを申し上げまして、私の御挨拶に代えさせていただく次第でございます。
(平成19年5月13日 月例報恩御講において)

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