平成19年6月1日発行 高照山 第234号
妙光寺執事  内海雄幸
異 体 同 心 事
弘安2年8月 58歳 

 一人の心であっても二つの心があれば、その心は別々で違っているので、何事も成就することが出来ない。百人千人であっても、それらの人々が一つの心であれば必ず何事も成就する。日本国の人々は多人数であるが、同体異心なので何事も成就することはむずかしい。日蓮の一類は異体同心なので、人数が少なくとも大事を成就して必ず法華経も弘まるであろう。

(通釈)
 一人の心であっても二つの心があれば、その心は別々で違っているので、何事も成就することが出来ない。百人千人であっても、それらの人々が一つの心であれば必ず何事も成就する。日本国の人々は多人数であるが、同体異心なので何事も成就することはむずかしい。日蓮の一類は異体同心なので、人数が少なくとも大事を成就して必ず法華経も弘まるであろう。
(解説)
 異体同心は我々日蓮が門下信徒一同に対する、日蓮大聖人の御遺言であると思って頂きたい。
 日本の広宣流布は我等の異体同心の信心がない限り成就出来ない。
 世界の広宣流布はまた国境、人種、言語を超えた全世界の人々の異体同心の折伏以外に実現しない。
 異体同心の信心、異体同心の団結、異体同心の発心、異体同心の精進を忘れてはならない。
(お話)
 異体同心が大事であるということは、すでに皆様方どなたも御承知のことと思いますが、この異体同心を破るものは、怨嫉でございます。怨嫉というのは、怨み、嫉妬するということですが、この怨嫉の恐ろしいところは、そういう感情になっているのに、自分では気付かないというところにあります。
 自分で気付いたならば、怨嫉は絶対にいけないものだと分かっていますから、そういう感情を抱かないように努力をするのだけれども、自分が怨嫉にとらわれているということが分かっていなければ、それを制御する方法は、自分自身で見つけることはできません。 では、この怨嫉は何で起きるのでありましょうか。これは物事の責任を他の人に押しつけるところから出てくる感情でございます。すなわち、「私がお寺にいかないのは、あるいはお山に行かないのは、あの人がいるからよ」と、自分のせいではない、他人のせいにして責任を押しつけているのです。
 要するに、自分自身には責任がないという考えから、怨嫉というものは出てくるのであります。そういう全部を他の責任にするという考えは、仏法の考え方ではありません。
 仏法の考え方では、自分の行動を通して受けるところのさまざまな事柄は、宿業によるということを説いているわけでございます。その宿業ということを考えないで、相手を逆に恨んでしまうということは、仏法に外れた教え、いわゆる外道の考え方であります。当然、成仏できるわけがありません。
 そうして、その怨嫉する言葉を自分だけに収めおくのではなくて、他人にまで吹聴するということがあります。「私はこの間、あの人からこういう目にあったの。こういうことを言われたの」と、そういったことを他の人にも、どんどん広めていってしまうということをやる。当然のことながら周りのそれを聞いた人も、それに影響を受けてしまうことになりかねません。そういう周りの人に外道の教えの影響を与えるということは、破和合僧という行為に当たります。つまり、怨嫉が、正しい仏法を信仰し修行している人たちの団結(和合僧)を破壊するということになります。そうして、この破和合僧は五逆罪のうちの一つでございます。
 五逆罪というのは、父を殺し、母を殺し、阿羅漢(尊敬や施しを受けるに相応しい聖者)を殺し、和合僧を破り、仏様の身から血を出す、という五つの大罪であります。
 怨嫉によって、破和合僧という五逆罪の一つを犯した人が、どんな困難も自分自身の信心によって克服し、幸せになり、成仏することが果たしてできるでしょうか。また、破和合僧になった講中や団体がお互いに成仏を果たし、広宣流布のための牽引者になっていけると思いますか。そういうことはだめになってしまうわけでございます。ただ自分自身のそのときの感情だけで怨嫉を抱き、いろんな人に吹聴して周りの人までも巻き込んで、地獄の境涯に堕してしまうことになるわけでございます。
 大聖人様はそういったことを誡められて、「同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」と、おっしゃっておられるのは、そのことなのでございます。法華講中に所属する皆様方は、どこまでも異体同心、身体はそれぞれ別々であっても、心は一つになって、広宣流布を目指して、お互いに精進してまいろうではありませんか。
 では、その異体同心になるためには、どうしたらいいかと言えば、まさに今日のように、皆様方が折伏したい人のために、皆が場所を同じくして本堂において、御本尊様に向かって一時間、読経唱題をし、御祈念をする。こういった姿こそ、異体同心の姿でございます。この今の本堂の姿を持続するように、ぜひ心掛けていっていただきたいと思います。
 本年の「行動の年」も、いよいよ中頃に差し掛かりましたが、自分たちは異体同心の信心をしているのだろうか。自分自身は異体同心の法華講のために、何か物事がうまくできているのだろうか、貢献できているのだろうか。そういったことを考えつつ、今後とも折伏に精進をしていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせていただく次第でございます。本日の御参詣まことに御苦労様でございました。
(平成19年5月1日 広布祈念唱題会において)

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