平成19年7月1日発行 高照山 第235号
妙光寺執事  内海雄幸
法華行者値難事(一)
文永11年1月14日 五十三歳 

 「法華経の第四に云はく『如来の現在にすら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや』等云云。同第五に云はく『一切世間怨多くして信じ難し』等云云。涅槃経の三十八に云はく『爾の時に外道に無量の人有り○心に瞋恚を生ず』等云云。又云はく『爾の時に多く無量の外道有り。和合して共に摩伽陀王阿闍世の前に往きぬ○今は唯一の大悪人有り、瞿曇沙門なり。王未だ検校せず、我等甚だ畏る。一切世間の悪人、利養の為の故に其の所に往集して眷属と為る。乃至迦葉・舎利弗・目ケン連』等云云。如来現在猶多怨嫉の心是なり。得一大徳、天台智者大師を罵詈して曰く『智公汝は是誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根を以て而も覆面舌の所説の教時を謗ず』と。又云はく『豈是顛狂の人ならずや』等云云。南都七大寺の高徳等護命僧都・景信律師等三百余人、伝教大師を罵詈して曰く『西夏に鬼弁婆羅門有り、東土に巧言を吐く禿頭の沙門あり。此乃ち物類冥召して世間を誑惑す』等云云。秀句に云はく『浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す』云云。
  夫在世と滅後正像二千年の間に法華経の行者唯三人有り。所謂、仏と天台・伝教となり。真言宗の善無畏・不空等、華厳宗の杜順・智儼等、三論法相等の人師等は実経の文を会して権の義に順ぜしむる人々なり。竜樹・天親等の論師は内に鑑みて外に発せざる論師なり。経の如く宣伝すること正法の四依も天台・伝教には如かず」(御書719n)

(講義)

 皆様、こんにちは。6月度の宗祖日蓮大聖人様御報恩お講に当たりまして、本日は非常な悪天候のなか、本日のお講に参詣していだきまして、まことにありがとうございます。ただ今は、皆様方と共に読経唱題を申し上げ、謹んで仏祖三宝尊に厚く御報恩謝徳申し上げた次第でございます。
  さて、御住職より、今月の御書の講題といたしまして、『法華行者値難事』という御書を賜りました。この『法華行者値難事』は、お認めになられました年月日は「文永十一年正月十四日」(御書720n)となっております。大聖人様が、御流罪になって佐渡に渡られたのは文永8年10月のことですから、それからちょうど足掛け4年目に当たっております。この御書は、佐渡から富木常忍・四条金吾などの篤信の檀越に宛てて書かれた御書でございます。
  大聖人様の御流罪に対して、鎌倉幕府から赦免状が発せられたのが、同じ年の文永11年2月14日ということでございますから、この『法華行者値難事』は、そのちょうど1カ月前に著された御書ということになります。
  後に建治2年に著された『光日房御書』によりますと、文永11年の2月か3月ごろに、
  「頭の白き烏とび来たりぬ」(御書960n)
と仰せになっておりますように、大聖人様御自身が、不思議な相を佐渡において御覧になっておられます。そしてまた、
  「烏のれい、日蔵上人の『山がらすかしらもしろくなりにけり、我がかへるべき時や来ぬらん』とながめし此なりと申しもあへず」(同 上)
とございまして、頭の白い烏が来たから、御赦免になると予感をされ、周囲の者にも話をされて、それから間もなく御赦免状が届いたようでございます。
  本来ならば、当時、いったん佐渡に流されたならば、ほとんど帰っては来られない状況のなかで、何と大聖人様は「自分はもう少しで帰るでしょう」と予言をされていたわけでございます。
  すなわち、「今は佐渡の国に流されているが、必ず近々赦免状が来て、これからは法華経の行者として根本の大法を広めることができる」との確信をお持ちになっておられたのが、この時期であると拝されます。
  この御書でお述べになっていることは、まず釈尊の時代、そして釈尊滅後の正法時代、像法時代における法華経の弘通と、法華経を弘通された方々に対する誹謗・中傷・悪口の事例でございます。例えば、特に像法時代における天台大師や伝教大師が、法華経の教えを理解することができない人たちによって、さまざまに悪口・誹謗をされたのでございます。
  この法華経の行者に対する怨嫉は、本日の御文の一番最初にもありますが、「況滅度後」とあるように、仏滅後がいっそう激しくなるのです。しかし、お釈迦さんが生きていた時代ですら、それを本当に信ずることができず、退転していく人たちがいたということが、法華経の『方便品』等において説かれております。すなわち、
  「会中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等有り。即ち座より起って、仏を礼して退きぬ。所以は何ん。此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり」(法華経100n)
とあります。お釈迦さんの説法を聞いていた人たちのうち、約五千人は、「自分たちは今までお釈迦さんが説いてきた教えだけでもう充分です。これ以上すばらしい教えを聞こうとは思いません」ということで、座を立って帰ってしまっているわけです。お釈迦さんが「これから本当の教えを説きますよ」と宣言しているにも拘わらず、それを振り切って帰ってしまったわけでございます。それだけではございません。「実際に法華経を在世において、あるいは末法において、広めるということになると、さまざまな難がありますよ」ということが、法華経の『勧持品』等において、具体的に説き顕されているのでございます。
法華経の『勧持品第十三』には「及加刀杖者」(法華経375)、「数々見擯出」(同378n)等々の予証がされていまかすが、日蓮大聖人様は、そのお経文の通りに、全ての迫害を受け切っておられます。
  「及加刀杖者」ということは、法華経の行者に対して、刀で斬りつけたり、杖で打ち掛かったりする難が必ず起こるということが予証されているわけでございます。その通り、小松原の法難や竜口の法難において、現実に大聖人様の御身のえうに起こってまいりました。また「数々見擯出」ということは、たびたび自分の居る所を追われるということですが、これらも、伊豆流罪とか佐渡流罪等において、本当に大聖人様が御身をもって実証なさったところでございます。そのほかにも、大聖人様は、さまざまな難を受け切って、それらの難を全て克服されているわけでございます。そういうことを示されたゆえに、大聖人様は「法華経の行者」、その御内証は「末法の御本仏」と拝されるわけでごさいます。
  もう一つ、この『法華行者値難事』の重要なところは、本日拝読の御文のあとの「追申」の部分におきまして、初めて、三大秘法の名目が書き出されております。大聖人様は佐渡の御流罪の間に、五大部のうちの二つ、『開目抄』と『観心本尊抄』をお著しになっておりますが、その二つの御書のなかには、まだ三大秘法の名目は明かされておりません。この『法華行者値難事』が、初めて大聖人様の根本の教えであるところの三大秘法の名目を、
  「本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字」(御書720n)
と明かされたのでございます。
  これはどういうことかと申しますと、先ほど申し上げたように、大聖人様が赦免されてまた鎌倉に帰る時が近々来るという御確信があったものですから、本文には述べておりませんが、追伸のなかに「今度こそ三大秘法を教え広めるべき時が来た」と、そのように確信を持って仰せになっていると拝される次第でございます。
  どうか、そういったことを踏まえましたうえで、この御書の前半の部分を拝読申し上げたいと思います。
  では御文に入りますと、
  「法華経の第四に云はく『如来の現在にすら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや』等云云。同第五に云はく『一切世間怨多くして信じ難し』等云云」。法華経の巻第四『法師品第十』には「此の経を弘める者は如来の現在、つまり釈尊の在世ですら猶怨嫉が多いのである。ましてや如来の滅後は尚更である」(法華経326n)と説かれ、巻第五の『安楽行品第十四』には「一切世間には怨をなす者が多くて信じがたい」(同399n)とも説かれている。
  「怨嫉」というのは、怨み憎み、嫉むことであります。法華経の教えは「随自意」といって、仏様が自らの意志に随って、そのまま説かれた教えであります。そうして、法華経には「正直捨方便 但説無上道」(法華経124n)、「難信難解」(同325n)、「最為第一」(同533n)と説かれていますから、増上慢の者にとっては、憎らしく、妬ましく思われるわけであります。したがって、法華経の『法師品』や『安楽行品』等に、法華経は、怨嫉が多く、しかも信じ難いことが説かれているわけでございます。
  大聖人様は、末法において妙法を広めるに当たっては、身命に及ぶほどの多くの難があることは必定である。しかし決して退いてはならないという意味をこめて、このお経文を真っ先に挙げられたと拝されるのでございます。
「涅槃経の三十八に云はく『爾の時に外道に無量の人有り○心に瞋恚を生ず』等云云。又云はく『爾の時に多く無量の外道有り。和合して共に摩伽陀王阿闍世の前に往きぬ○今は唯一の大悪人有り、瞿曇沙門なり。王未だ検校せず、我等甚だ畏る。一切世間の悪人、利養の為の故に其の所に往集して眷属と為る。乃至迦葉・舎利弗・目ケン連』等云云。如来現在猶多怨嫉の心是なり」。涅槃経の巻第三十八(北本巻第三十九、南本巻第三十五)キョウ陳如品には「無量の外道やバラモンが仏の説法を聞いて、仏に対し瞋恚の心を生じた」(大正蔵十二−591A・同838C)とある。また同品に「多くの婆羅門共が一緒になって摩伽陀国の阿闇世王の所に往った。○今は唯一人の大悪人がある。それは瞿曇沙門である。王は已に他の婆羅門は処罰されたけれども、未だ大悪人を検校されていない。故に我等はそれも非常に畏れるのである。何となれば世間の悪人は利養の為に集まって眷属となっているからである。迦葉・舎利弗・目連等がそれである」(大正蔵十二ー591C〜592A・同839C〜840A)とある。如来の御在世にも猶怨嫉が多いとはこのことである。
  ここでは涅槃経のお経文を引かれて、インドの釈尊の在世において、外道すなわちバラモン教徒が、釈尊(瞿曇沙門)に対して、瞋恚すなわち怒りの心を抱き、怨嫉をした例を挙げておられます。当時、中インドにあった摩伽陀国の阿闍世王のもとに行って「瞿曇沙門は大悪人である」という偽りの訴えをして、迫害を加えたのであります。これは法華経の『法師品』に説かれている「如来の現在にすら猶怨嫉多し」というお経文の具体的な一例として挙げられたわけであります。
  「得一大徳、天台智者大師を罵詈して曰く「智公汝は是誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根を以て而も覆面舌の所説の教時を謗ず」と。又云はく「豈是顛狂の人ならずや」等云云」。法相宗の得一大徳は天台大師を罵って「智公、汝は誰の弟子だ。仏弟子ではないか。然るに三寸に足らない舌を以って、教主釈尊の説かれた三時教を謗ずるのであるか」と言い、また「汝は狂人ではないか」と罵っている。
  「得一」は、徳一または徳溢とも書き、法相宗の僧侶として、天台宗を誹謗しました。そこで、伝教大師は『守護国界章』を著して、同書上之上「弾麁食者謬破四教章第二」(大正蔵七四ー143A・145A)に、麁食者、粗末な飯を食する者、すなわち低劣な教義に執着する得一を破折されるために、彼の言い分を引用した箇所が、ここに挙げられた言葉であります。
  得一は、天台大師智ギが釈尊の教説を蔵・通・別・円の四教に分別しているのは、『解深密経』巻第二(大正蔵十六ー697A)にある、一時は声聞乗、二時は大乗を修する者、三時は一切乗に発趣する者のために説かれたとする三時教を謗るものであると非難しました。これに対して伝教大師は、『解深密経』は天台大師の滅後、51年後に玄奘三蔵が漢訳したもので、天台大師が三時教を謗ずるわけがない。また、三時とは勝義生菩薩が白した言葉である。それに対して天台大師の立てた五時八教(化法の四教と化儀の四教)は、仏説の涅槃経等に基づくと破折されています。
  「南都七大寺の高徳等護命僧都・景信律師等三百余人、伝教大師を罵詈して曰く『西夏に鬼弁婆羅門有り、東土に巧言を吐く禿頭の沙門あり。此乃ち物類冥召して世間を誑惑す』等云云」。また南都七大寺等の高僧等なかんずく護命僧都・景信律師等の三百余人は、伝教大師を罵って「西夏(印度)に鬼弁婆羅門があり、日本に巧言を吐く禿頭の沙門がある。此のような同類が自然に集まって世間をたぼらかすのである」と言っている。
  これは、南都奈良の七大寺、法相宗元興寺の護命や華厳宗東大寺の景信(景深)等の高僧たちが、伝教大師の大乗戒壇建立勅許の願いに反対し、朝廷に上奏したときの文の一部であります。この文は、伝教大師が書かれた『顕戒論』巻下の「開示一乗正教多怨嫉明拠五十六」(大正蔵七四ー623B)に載せられておりますが、その一部をこの御書に引用されたわけでございます。
当時の日本において、正式に僧侶になるためには、朝廷によって公認さていた戒壇、奈良の東大寺の戒壇院か、太宰府の観世音寺か、下野国(現在の栃木県)の薬師寺かのいずれかで、小乗の二百五十戒(具足戒)の授戒を受けなければならなかったのです。
  そこで伝教大師は、東大寺等で小乗戒を受けなくても、自宗の比叡山で大乗戒を授けて、官許の僧侶を養成できるようにと、時の嵯峨天皇に願い出たのです。
  そのことを知った南都七大寺の高僧等が猛反対をしたため、伝教大師は『顕戒論』を著して、小乗戒に固執する者たちを破折され、一乗の正教である法華経に「猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と予証されているのは、まさしく、その通りであると書かれたのでこざいます。
  「鬼弁婆羅門」については、玄奘三蔵の著『大唐西域記』巻第八(大正蔵五一ー913A)によりますと、昔、天竺に鬼弁婆羅門という者がいて、鬼や魑魅魍魎が付いており、人と議論をして激しく非難をされると、帷を垂して顔を見せないようにした。しかし、師匠から学ばなくても右に並ぶ者のいないほど高い才能があると、周りの人たちは、聖人のように仰いでいた。ところが、馬鳴菩薩が訪ねて行って、高遠な教義を述べ、「私の述べたことを覚えているか、その通りにもう一度述べてみよ」と言うと、その鬼弁婆羅門は口を閉じてしまって、その虚名は失墜してしまったということであります。
  「東土に巧言を吐く禿頭の沙門」とは、伝教大師を指して誹謗した南都の護命等の言葉であります。
「此乃ち物類冥召して世間を誑惑す」とは、天竺の鬼弁婆羅門に鬼や魍魎が相依って付いてきたように、また、日本の最澄にも、巧みな言葉を吐く同類のものが秘かに召し合わされて、世間を誑かし、惑わしていると、誹謗したのであります。
「秀句に云はく『浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す』云云」。然るに伝教大師は『法華秀句』巻下(伝教大師全集三ー273n)に「法華以前の浅近の法門は持ち易いが、法華経の如き深遠の法門は持ち難いと言うのは釈尊の教判である。その浅い法門を去って深い法門に就くのが大丈夫の取るべき道である。それ故に天台大師は釈尊に信順して、その深い法華宗を助けて中国に弘められた。叡山の天台一家も此の深義を天台より受けて法華宗を日本に弘通するのである」と言われている。
仏滅後、像法時代に法華経を広められたのは、中国においては天台大師であり、日本においては伝教大師であります。しかし、このお二人は、法華経の肝心の法体、南無妙法蓮華経については、釈尊から付嘱を受けておらず、また、その肝心の教えを流布すべき末法の時ではないために、内心では御承知でありましたが、外には明確に示さず、法華経の迹門を表として広めるに止められたのでございます。
  「夫在世と滅後正像二千年の間に法華経の行者唯三人有り。所謂、仏と天台・伝教となり。真言宗の善無畏・不空等、華厳宗の杜順・智儼等、三論法相等の人師等は実経の文を会して権の義に順ぜしむる人々なり。竜樹・天親等の論師は内に鑑みて外に発せざる論師なり。経の如く宣伝すること正法の四依も天台・伝教には如かず」。此のように見てまいると、在世と滅後二千年の間に法華経の行者は唯三人で、いわゆる釈尊と天台と伝教がそれである。真言宗の善無畏・不空等、華厳宗の杜順・智儼等、三論法相の人師等は実経の文を曲解して方便権教の義に惑わしめた人師である。龍樹・天親等の論師は心の中には充分知っていたが、外には発表せられなかった論師である。経文の如く宣伝せられたのは天台伝教であり、それには龍樹天親も及ばないのである。
  インドにおいて、九横の難を凌ぎ、出世の本懐として法華経をお説きになった釈尊は、もちろん法華経の行者のお一人です。また、像法の中末に、中国において、天台大師は南三北七の邪義を破し、法華経迹門を表として世に広めました。ゆえに天台大師も法華経の行者のお一人です。日本においては、伝教大師が、南都七大寺等の誹謗を破折し、比叡山に法華経迹門の戒壇を建立するため尽力され、滅後、実現しました。ゆえに伝教大師も法華経の行者のお一人であります。
  中国唐代の善無畏や不空は大日経を広め、同じく唐代の杜順・智儼は華厳経を広め、三論宗は般若経、法相宗は解深密経を依経として、法華経の義を盗み、方便の権りの教えを広めた。正法時代の後半、インドに出られた龍樹・天親等の論師も、法華経の勝れていることは知っていたが、爾前権教の般若経等を広めるに止まった。ゆえに、これらの人師は、法華経を広められた天台大師・伝教大師には及ばないのであります。
  本年「行動の年」も、いよいよ後半を迎え、皆様方には、ますます自行化他に御精進をなされて、それぞれの誓願目標を達成されますようお祈り申し上げ、今日の御書講を終わらせていただきます。本日のお講の御参詣まことに御苦労様でございました。
(平成19年6月10日 月例報恩お講において)

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