平成19年7月1日発行 高照山 第235号
妙光寺執事  内海雄幸
四 条 金 吾 殿 御 書

 「在家の人々も、我が父母、地獄・餓鬼・畜生におちて苦患をうくるをばとぶらはずして、我は衣服・飲食にあきみち、牛馬眷属充満して我が心に任せてたのしむ人をば、いかに父母のうらやましく恨み給ふらん。
僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人はまれなり。定めて天の日月・地の地神いかりいきどをり給ひて、不孝の者とおもはせ給ふらん。形は人にして畜生のごとし、人頭鹿とも申すべきなり」(御書470n)

(通釈)
 また在家の人々でも、自らの父母が地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちて苦しみや、災いを受けているのを弔わないで、自分の衣服、飲食に飽き満ち、牛馬、眷属は充満して、自分の心に任せて楽しむ人を、父母はどれ程うらやみ、恨まれる事であろうか。
  僧侶の中にも父母、師匠の命日に弔う人は稀である。定めて天の日月、地の地神は怒り憤って不幸の者と思っておられるであろう。このような不幸の人は姿形は人間であっても畜生のようなものである。人頭鹿とも言うべきである。
(解説)
 地獄・餓鬼・畜生の三悪道は決して遠いところに存在するのではなく、自らの命の中に、心の中に存在しているのである。
  正法を信受せず悪法に執着すれば謗法の報いを受けて三悪道に堕ち、父母や兄弟、子供を正法によって弔う事なく、自らの欲望のみに溺れれば、また不幸の者の報いを受けねばならない。
  正法を信受せず悪法に執着すれば謗法の報いを受けて三悪道に堕ち、父母や兄弟、子供を正法によって弔う事なく、自らの欲望のみに溺れれば、また不幸の者の報いを受けねばならない。
  正法を知り、正法を信受し、正法を修し、正法を教え、正法によって父母眷属一切の人々を三悪道より救い出す事の尊さを絶対に忘れてはなりません。
  さあ正法の功徳で悪世の中の人々を啓蒙していきましょう。
(お話)
 今月の御書の趣旨は、父母への報恩、追善供養の大事ということでございます。
  涅槃経(北本巻第三十二)に、
「末代悪世に不孝の者は大地微塵よりも多く、孝養の者は爪上の土よりもすくなからん」(取意、御書1503n)
とございます。
  今、末法という時代には、親不孝の者が大地微塵よりも多いと説かれているわけでございます。現に連日のようにテレビ・週刊誌・新聞等によって、親が子どもを殺したり、子どもが親を殺害したり、あるいは、夫婦同士の憎悪からお互いに殺害し合ったりと、まことに耳を塞ぎたいような事件が次々と起こっている昨今でございます。
これらは、仏法のうえから申せば、全て正しい教えに背き、狂った教えを基本として、毎日毎日の生活を送っているために、親を親とも思わず、子どもを子とも思わず、貪・瞋・癡の三毒を自分自身でコンロールすることができないから、このような悲惨な結末を迎えてしまうのでございます。
  それゆえに、今の世の中を末法濁悪の世と言うわけでございます。どうして、そのような悲しむべき信じられない出来事が起こるのか、その根本の原因というものを今我々は真剣に考えていかなければいけないと思うのでございます。
  御書を拝読いたしますと、大聖人様は、特に母親について、我が子を胎内に宿す時から、いろんな苦痛に耐え、お産の非常な苦しみを忍び、生まれると、すぐに抱きかかえて、3カ年の間、愛情を込めて乳を飲ませて育てるということが、『刑部左衛門尉女房御返事』(御書1504n)に詳しく述べられております。
大聖人様は、母親が赤子に飲ませる乳の量を詳しく示されて、乳の値は1合でさえ三千大千世界に値するほど貴重なものであると仰せであります。母親が、どんなに苦労して子どもを育てるかということが、御書を通して、ひしひしと胸に迫ってくると思います。
子どもの方は、そういう母親の苦労に対して、それほど思っていない。かえって親を殺すという子どもさえ出てきている。育ててくれたお父さん・お母さんの恩というものを忘れて、その死後は追善供養をすべきであるのに、年が経つにつれて、そういうことが少なくなっているのも現実でございます。
  「親の心子知らず」と、親が子を思うほど子供は親のことを思っていない。そういうことも言われていますが、大聖人様は、本日の御文の対告衆、四条金吾殿のほかにも、刑部左衛門尉の女房に対しまして、母親の13回忌に懇ろに追善供養するということは、本当に親孝行の模範であると、お褒めになっておられます。
  仏教には「三種の孝養」ということが説かれております。
  『十王讃歎抄』に、
  「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違はざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」(平成校定御書2781n)
とあります。たしかに物質的にも精神的にも、親に対して孝養を尽くすことは大事なことで、子として当然なことでしょう。しかし、どんなに親に物を施したり、また、親の意に逆らわず生きていたとしても、今世限りのことでございます。三世にわたる孝養ということができなければ、来世まで親を救うことはできないのでございます。
  『開目抄』には、
  「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり」(御書563n)
と仰せになっております。
  親孝行というようなことは、昔は孔子や孟子等の儒教の教えとして、道徳とか修身とかで学びました。物を盗んではいけない。親に逆ってはいけないとか、そういう人間として践み行うべき基本が言わてれいます。
  大聖人様がおっしゃっていることは、それは今世だけではだめであって、過去・現在・未来に亘って親孝行ができなければ、人として生まれて来た意味がないと、『開目抄』でおっしゃっておられるわけでございます。また、
  「此等の賢聖の人々は聖人なりといえども、過去をしらざること凡夫の背をみず、未来をかゞみざること盲人の前をみざるがごとし」(御書524n)
と説かれております。
  来世まで救いきることのできる孝養こそ真実の孝養であり、それは外道の教えによっては望むことができないものでございます。
  上品の孝養とは、功徳を親に回向すること、回り向かわせることでございます。もし親が信心をしていなければ、正法に帰依させるということであり、妙法の題目によって親を供養することであります。
  『刑部左衛門尉女房御返事』の最後の部分に、
  「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。(中略)定めて過去聖霊も忽ちに六道の垢穢を離れて霊山浄土へ御参り候らん。此の法門を知識に値はせ給ひて度々きかせ給ふべし。日本国に知る人すくなき法門にて候ぞ。くはしくは又々申すべく候」(御書1506n)
と仰せになっております。
妙光寺には、上品の孝養を尽くすためにも、お墓がございます。それから納骨堂もありまして、それぞれ御両親・お祖父さん・お祖母さん等の御遺骨をお預かりしています。そして、そういう近親の方々の追善供養を常にお勧めしており、恒例のお盆のお経廻りということも行って、各信者さんの家を廻り、読経・唱題、御回向申し上げております。妙光寺の御信徒には百年以上も前から正宗の御本尊を護持してきて、毎日の勤行で、先祖を回向されている家がたくさんあります。
  現在の家庭の発展、また、幸せの基というものは、先祖の方々が命がけで御本尊様をお護り申し上げて来た功徳です。また、自分たち子孫の繁栄は、将来に亘り、純粋な信心を受け継いでいくことにあり、法燈相続をしなければ、せっかく何代もの間、培ってきた信心の功徳も、また、先祖を回向する上品の孝養も、皆、灰燼に帰してしまう。このことを肝に銘じ、子どもに対して、登山ならびに寺院参詣の意義と、折伏の大事を教えてください。そうしなければ、何時しか我見が入り、清流から離れ、濁流となってしまいます。
  本年「行動の年」の後半に当たり、我が家は信心の相続ができているか、自分の一族、地区の人達の法燈相続、真の孝養はできているか、このことを確かめていただきたいと思う次第でございます。以上、申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせていただきます。
(平成19年6月1日 広布祈念唱題会において)

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