平成19年10月1日発行 高照山 第238号
妙光寺執事  内海雄幸

十界について

 私たちにとって何が大事か、人生の目的は何かと問いますと、ある人は命の次にお金が大事だと言い、ある人は家族と楽しく暮らすことだと言い、ある人は勉強して世の中の役に立つことだと言い、ある人は名誉を重んじることだと言います。
  しかし、結論から言えば、仏教では成仏すること、生きているうちに仏に成ることを目的とします。仏というと、奈良や鎌倉の仏像を思い起こすかも知れませんが、あれが本当の仏の姿ではありません。仏とは、実生活において、どんな困難や障害に遭遇しても、それを敢然と乗り越えていく力強い生命力を持ち、万人や万物を慈しむ優しい心を持った方であります。
そもそも、私たちは、瞬間、瞬間に、いろいろな心の状態になります。その異なった状態、境界を十種に分類して、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界と言います。この十界は、だれでも持っていて、人間にも地獄界から仏界まで全部具わっており、仏様にも十界が全部具わっているのです。これを十界互具と言います。
  この十界は、具体的にはどういう状態かと言いますと、私たちは、その時、その時によって、怒ったり、喜んだりと、いろいろに変化しますが、日蓮大聖人様は『観心本尊抄』に、
  「瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。(中略)世間の無常は眼前に有り、豈人界に二乗界無からんや。無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり。但仏界計り現じ難し、九界を具するを以て強ひて之を信じ、疑惑せしむること勿れ」(御書647n)
とおっしゃっております。こういった日常生活における様々な状態が十界に当てはまるのです。
  たとえば、この御文に「世間の無常は眼前に有り」とございますが、豊臣政権の五奉行の一人、片桐且元が、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」と詠んだと言われています。これは『淮南子』(説山訓)の「一葉の落つるを見て、?の将暮を知る」という言葉に依ったのでしょうが、飛花落葉の自然現象を見て、世間の無常を感じ、豊臣氏の滅亡を察知したというわけで、縁覚界の一分とも言えましょう。
  また「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す」とございますが、安土桃山時代の大泥棒、石川五右衛門が、三条河原で釜ゆでの刑に処せられた時、子供も一緒に高温の釜の中に入れられたのですが、自分が息絶えるまで、子供を持ち上げていたということが言われています。
  『光日上人御返事』には、
  「子を思ふ金鳥は火の中に入りにき。子を思ひし貧女は恒河に沈みき。彼の金鳥は今の弥勒菩薩なり。彼の河に沈みし女人は大梵天王と生まれ給ふ」(御書1566n)
とございまして、子供を思う親は、我が身を犠牲にしても子供を助けようといたします。これらは、菩薩界等の表れとも言えましょう。
  法華経には、十界互具した百界に、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・等の十如是が関わって千如是となり、これらが衆生・国土・五陰の三世間に亘って三千となり、この三千世間(または三千如是)が、我々のわずか一瞬の心にも具わり、また我々の一念は、宇宙の隅々にまで遍満し、行きわたるという一念三千の法門が説かれています。
  私たちは、心の奥底に冥伏している仏界を表面に顕現するために、御本仏、日蓮大聖人様が、
  「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書685n)
とおっしゃった御本尊様、一念三千の法理を如実に顕されたところの対境である御本尊様に向かって、知恵に代わる信心をもって、南無妙法蓮華経と唱えて、境智冥合、仏様の境界に合一し、その身そのまま、即身成仏するのであります。
  我々人間は、往々にして、経済的に行き詰まって困るとか、健康上、身体に悪い所があるとか、嫌な奴と顔を合わせなければならないとか、欲しい物が手に入らないとか、愛する人と別れなければならないとか、物質的、精神的に欲求が盛んで苦しんでいるとか、そういうことで悩むことがあります。ところが、こういう全ての悩みは、実は、一切衆生をして、何とか現状より良くして、仏の境界に皆共に入らせてあげようという、永遠不滅の仏様の願いに通じているのです。まさに煩悩即菩提です。本当に有り難いことだと思い、御本尊様を信じて、お題目を唱え、ぜひ、頑張っていきましょう。(平成19年9月2日「春の会」にて)

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