平成19年10月1日発行 高照山 第238号
妙光寺執事  内海雄幸
国府尼御前御書(二)
文永11年6月16日 53歳 

 されば或時は数百人にのられ、或時は数千人にとりこめられて刀杖の大難にあう。所ををわれ国を出ださる。結句は国主より御勘気二度、一度は伊豆の国、今度は佐渡の島なり。されば身命をつぐべきかんてもなし、形体を隠すべき藤の衣ももたず、北海の島にはなたれしかば、彼の国の道俗は相州の男女よりもあだをなしき。野中にすてられて、雪にはだへをまじえ、くさをつみて命をさゝえたりき。彼の蘇武が胡国に十九年雪を食ふて世をわたりし、季陵が北海に六箇年がんくつにせめられし、我は身にてしられぬ。これはひとえに我が身には失なし。日本国をたすけんとをもひしゆへなり。
  しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはヾからず、身にもかわらんとせし人々なり。さればつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すゝむあしもかへりしぞかし。いかなる過去のえんにてやありけんと、をぼつかなかりしに、又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかいにてつかわされて候。ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ。日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
   六月十六日        日 蓮 花押
  さどの国のこうの尼御前(御書739n)

(講義)

 本日拝読の御文の最初に「されば或時は数百人にのられ、或時は数千人にとりこめられて刀杖の大難にあう。所ををわれ国を出ださる。結句は国主より御勘気二度、一度は伊豆の国、今度は佐渡の島なり」とございます。日蓮大聖人様は、立正安国の御精神をもって折伏を行ぜられていった結果、大変な迫害に遭われた。ある時は数百人に罵られ、ある時は数千人に取り囲まれて、刀や杖で打ち掛かられるという大難に遭われた。また、住む所を追われ、国を出された。その結果は、鎌倉幕府の執権によって、二度も流罪を言い渡された。一度は伊豆の国であり、今度は佐渡が島であります。
  「罵られ」「刀杖の難」に遭うということは、法華経の『勧持品第十三』に、
  「仏の滅度の後の 恐怖悪世の中に於て 我等当に広く説くべし 諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん」(法華経375n)
と予証されておりまして、大聖人様は、まさに法華経の行者として、その通り、身をもって実証なされたのであります。すなわち、大聖人様は『上野殿御返事』に、
「日蓮は刀杖の二字ともにあひぬ。剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜の口となり。一度もあう人なきなり。日蓮は二度あひぬ。杖の難には、すでにせうばうにつらをうたれしかども、第五の巻をもてうつ。うつ杖も第五の巻、うたるべしと云ふ経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり」(御書1360n)
と仰せられております。
  刀の難は、一つには、大聖人様が御年43歳の文永元年11月11日に、念仏の信者の地頭、東条景信の率いる者たちに待ちかけられて、刀で斬りつけられた法難のことであります。この法難については『南条兵衛七郎殿御書』に、
  「今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり」(御書326n)
とございまして、大聖人様御自身が、刀傷を負われました。その傷については『滝泉寺申状』に、 
  「聖人頭に疵を負ひ、左手を打ち折らるゝの上、両度まで遠流の責めを蒙り」(御書1401n)とありますので、刀で斬りつけられたとき、眉間に傷を負われ、左手を打ち折られたことが分かります。
  また、二つ目は、御年50歳の文永8年9月12日の夜中に、竜ノ口の頚の座において、平ノ左衛門尉の配下の太刀取りによって、まさに頚を斬られようとした法難であります。すなわち『種々御振舞御書』に、
  「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月よのやうにて人々の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、けうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。日蓮申すやう、いかにとのばらかヽる大に禍なる召人にはとをのくぞ、近く打ちよれや打ちよれやとたかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。さてよあけばいかにいかに、頚切るべくわいそぎ切るべし、夜明けなばみぐるしかりなんとすヽめしかども、とかくのへんじもなし。はるか計りありて云はく、さがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す」(御書1060n)
と、ございます。この竜ノ口の法難に続いて、今度は佐渡の御流罪となるのであります。
  また杖の難とは、先ほどの『上野殿御返事』にもありましたように、文永8年9月12日に、鎌倉の松葉が谷の草庵において、平ノ左衛門尉の郎従、少輔房が法華経の五の巻(勧持品等)をもって、大聖人様の面を打ったのであります。
  さらに二度までも所を追われて流罪になったということは、同じく『勧持品』に、
  「数数擯出せられん」(法華経378n)
と予証されておりまして、大聖人様は、御年40歳の弘長元年5月12日に伊豆の伊東に流され、今度は御年50歳の文永8年10月に佐渡が島に流されたわけであります。
  「数百人」というのは、小松原の法難の時でありまして、さきほどの『南条兵衛七郎殿御書』の御文にも「数百人の念仏等にまちかけられ」とございますように、数百人という大勢の念仏者が、房州東条の小松原において、大聖人様の命を狙っていたわけであります。
  また、佐渡の塚原問答の時にも『種々御振舞御書』に、
  「多くの義の中にこれについて守護所に数百人集まりぬ。六郎左衛門尉の云はく、上より(日蓮を)殺しまうすまじき副状下りて、あなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかしと云ひければ、念仏者等或は浄土の三部経、或は止観、或は真言等を、小法師等が頚にかけさせ、或はわきにはさませて(文永9年)正月十六日にあつまる。佐渡国のみならず、越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より集まれる法師等なれば、塚原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集まりたり。念仏者は口々に悪口をなし、真言師は面々に色を失ひ、天台宗ぞ勝つべきよしをのゝしる。在家の者どもは、聞こふる阿弥陀仏のかたきよとのゝしりさはぎひヾく事、震動 雷電の如し。日蓮は暫くさはがせて後、各々しづまらせ給へ、法門の御為にこそ御渡りあるらめ、悪口等よしなしと申せしかば、六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて、悪口せし念仏者をばそくびをつきいだしぬ。さて止観・真言・念仏の法門一々にかれが 申す様をでっしあげて、承伏せさせては、ちゃうとはつめつめ、一言二言にはすぎず。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ。利剣をもてうりをきり、大風の草をなびかすが如し」(御書1064n)
とございますように、佐渡の国の地頭の本間六郎左衛門の計らいによって、佐渡の近隣から諸宗の法師、数百人が塚原の堂の前庭に集まって、大聖人様に問答を挑みましたが、あっけなく敗退してしまったということであります。
  また「数千人」というのは、大聖人様が文応元年7月16日に『立正安国論』を提出された直後、同年8月27日に、念仏者等の数千人によって、大聖人様の住んで居られた松葉が谷の草庵が、夜討ちをされたという時のことでありまして、『下山御消息』に、
  「夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ。然れども心を合はせたる事なれば、寄せたる者も科なくて、大事の政道を破る。日蓮が生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」(同1150n)
とございます。大聖人様は、幸いに、この法難を逃れまして、しばらくの間、下総の方へ行かれ、その後、鎌倉へ戻って来られたところを、この御文に「日蓮が生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」とありますように、幕府の命によって捕らえられて、伊豆の伊東へ流されることになったのであります。
次に「されば身命をつぐべきかんてもなし、形体を隠すべき藤の衣ももたず、北海の島にはなたれしかば、彼の国の道俗は相州の男女よりもあだをなしき。野中にすてられて、雪にはだへをまじえ、くさをつみて命をさゝえたりき」。それゆえに身命を継ぐ命の糧もない。形を隠す藤の衣も持たず、北海の孤島に放たれたため、佐渡の国の僧侶や俗人は相模の国の男女よりも日蓮を憎み怨をなした。野原の中に捨てられたため、雪が肌に降りかかるような有様で、草を摘んで命を支えて来たのであると仰せであります。
  大聖人様は『呵責謗法滅罪抄』に、
  「例せば此の佐渡国は畜生の如くなり。又法然が弟子充満せり。鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(御書717n)
と仰せでござまして、当時の佐渡の国に住んでいた僧俗が、大聖人様に対して憎悪の念を抱いていたことは、大変、激しいものがあったのであります。
  「野中にすてられて、雪にはだへをまじえ」というのは、『種々御振舞御書』に、
  「(文永8年)十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野 のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かヽる所にしきがは打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさヽせ給はず、心細かるべきすまゐなり」(御書1062n)
とございますように、大聖人様が佐渡の配所、塚原の三昧堂において、大変厳しい御生活をなさったということでございます。
  「彼の蘇武が胡国に十九年雪を食ふて世をわたりし、季陵が北海に六箇年がんくつにせめられし、我は身にてしられぬ。これはひとえに我が身には失なし。日本国をたすけんとをもひしゆへなり」。それは、中国の漢の時代に、蘇武が北方の匈奴への使者として行った時、抑留されて、穴倉に飲食物も無く捨て置かれたが、蘇武は臥して雪をかじり、旃毛と一緒にこれを飲み込んで、数日死なず、匈奴は神となしたと言われております(漢書卷五十四、李広蘇建伝第二十四)。また、李陵は蘇武と同時代の人で、匈奴と戦い力尽きて降り、漢の友軍を援助しなかったという讒言によって、漢の武帝に一族を殺されてしまい、匈奴に在ること二十余年にして病死したということであります(同上)。李陵が巌窟で責められたということについては、『種々御振舞御書』にも、
  「李陵が胡国に入りてがんかうくつにせめられし」(御書1062n)
と記されておりますが、その典拠は不明であります。ともかくも、蘇武や李陵が味わった苦難を、今は大聖人様が自らの御身に体験しておられたわけであります。これは大聖人様には一向に咎はなく、ただ日本国を救おうと思ってやったことである、ということであります。
  「しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはヾからず、身にもかわらんとせし人々なり。さればつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すゝむあしもかへりしぞかし」。しかるに尼御前並びに入道殿は大聖人様が佐渡の国にいた時は、人目を恐れて夜中に食物を送り、ある時は国の責めをもはばからず、大聖人様の身替わりにもなろうとした人であります。それゆえに、辛かった佐渡の国ではありましたが、鎌倉へ帰る時は剃った髪を後ろへ引かれるような思いで、進む足も前には出ないほどでありました。如何なる過去の因縁であろうか。尊い過去の契りがあったに違いない、ということであります。
  「夜中に食ををくり」ということは、『千日尼御前御返事』にも、
  「地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、かよう人をあるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつをしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ」(御書1253n)
とございますように、阿仏房夫妻も、国府入道夫妻も、共に、塚原三昧堂におられた大聖人様に対して、秘かに夜中に食べ物を御供養していたことが知られます。
  「いかなる過去のえんにてやありけんと、をぼつかなかりしに、又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかいにてつかわされて候。ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ」。如何なる過去の因縁であろうか。尊い過去の契りがあったに違いない。お別れして以来、久しく佐渡の音信も聞かないので心許なく存じていたところへ、またいつしか大事な我が夫を御使として、はるばる身延へ使わされたことは、夢なのか幻ではないのかと嬉しく思っている。尼御前の姿はないけれども、心はここに留め置かれるように思われる、ということでございます。
  『千日尼御前御返事』にも、
「佐渡の国より此の国までは山海を隔てヽ千里に及び候に、女人の御身として法華経を志しましますによりて、年々に夫を使ひとして御訪ひあり」(御書1290n)
と仰せでございまして、千日尼も、夫の阿仏房を使いとして、毎年のように、身延の大聖人様をお訪ねして御供養を捧げておられたようであります。
  「日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」。もし日蓮が恋しく思われた時は、常に出る日、夕べには月を拝まれるとよい。いつとなく日月に影を浮かべる身である。また後生には霊山浄土でお値い致しましょう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、この御文を結ばれております。
法華経の『如来神力品二十一』に、
  「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅せん」(法華経516n)
と説かれているように、末法の御本仏、日蓮大聖人様は、日月の光明のごときお力と功徳をもって、我々衆生を利益してくださるのであります。それゆえに、ここで「日月にかげをうかぶる身なり」と仰せられていると拝されます。
  本日拝読の御書の対告衆、国府尼とその夫、国府入道や、同じく佐渡の阿仏房・千日尼夫妻の信心は、七百年の時を越えて、今、我々に重要なことを教えてくれております。それは日蓮大聖人様を渇仰恋慕する信心ということであります。佐渡から海を越え山を越えて、遠路遙々、身延の大聖人様をお訪ねするために、高齢の夫を遣わせたということであります。
  大聖人様は『本尊供養御書』に、
「須弥山に近づく鳥は金色となるなり」(御書1054n)
と仰せでございます。このことは『大智度論』巻第三十四に「五色、須弥山に近づけば自ずから其の色を失って皆同じく金色となる」(大正蔵25−321A)ということが説かれておりまして、須弥山は世界の中心にあるとされた山です。現今においては、御本仏、日蓮大聖人様の御魂たる本門戒壇の大御本尊のまします日蓮正宗総本山大石寺こそが、世界第一の霊地であり、須弥山に相当します。
  私たちは、この霊地に登山参詣することによって、大御本尊様の功徳と同一味になり、絶大な御利益を頂戴することができるのであります。自らはもとより、同信の家族、友人を誘って、共々に大御本尊様にお目通りして、いかなる困難をも克服して乗り越える力を頂き、本当の幸せな境涯を築いてまいろうではありませんか。以上申し上げまして、今日の御書講に代えさせていただく次第でございます。本日の御参詣、まことに御苦労様でございました。
(平成19年9月9日 月例報恩御講において)

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