平成19年11月1日発行 高照山 第239号
曽 谷 殿 御 返 事

 「涅槃経に云はく『若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり』云云。此の文の中に見壊法者の見と、置不呵責の置とを、能く能く心腑に染むべきなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」(御書1039n)

(通釈)
 涅槃経に、「もし善き比丘があって正法を壊る者を見ながら、叱り責めることもなく、謗法をはらい対治することなく、誤りを糾弾することもなかったならば、此の人は仏法の中の怨である。もしよく謗法を対治し、しっかり責め、はっきりと糾弾すれば、是の人は我が弟子であり、真の僧侶である」とある。此の文の中の正法を壊る者を見ての「見」と、置いて呵責せずの「置」とをよくよく心肺に染めなければならない。法華経の敵を見ながら放置して責めなければ、師も檀那も共に無間地獄に堕ちることは疑いがない。

(住職法話)
 これは涅槃経の寿命品の有名な御文であります。
このお経文に関連して、章安大師は『涅槃経疏』(巻第七)に、
「仏法を壊乱するは、仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむは、是れ彼が怨なり。能く糾治せん者は、是護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親なり」(大正蔵38−80B、御書577n等)と述べております。
また、大聖人様は『守護国家論』において、
  「仏誡めて云はく『謗法の人を見て其の失を顕はさざれば仏弟子に非ず』と」(御書145n)と仰せでございます。
  さらに、大聖人様は『御講聞書』のなかで、この涅槃経の「置不呵責」の御文について、
  「謗法不信の失を見ながら聞きながら、云はずして置かんは必ず無間地獄へ堕在すべし。仍って置の一字は獄卒阿防羅刹なるべし。尤も以て恐るべきは置の一字なり云云」(御書1857n)と仰せになっていらっしゃいます。
それほど謗法を放置して置くことは本当にいけないことであり、見て見ぬふりをすることもいけないことであります。
  謗法の人を見て見ぬふりをし、謗法の宗旨や教義を破折することもなく、謗法の行為や法要に参加することを許していると、いつまでたっても相手を救うことが出来ません。
  ところが、もし私たちが、謗法の者を見て放置せずに折伏を行ずれば、同じく涅槃経に、
  「正法を護持し、法を壊る者を見て即ち能く駆遣し呵責し徴治する者は、当に知るべし是の人福を得ること無量にして称計すべからず」(同経巻第三寿命品)と説かれておりまして、数えることができないほどの無量の福徳を得ることができると仰せであります。
  正法の功徳は、折伏を通じて顕れてくるのであります。しかも、無量の称計すべからざる功徳となって、私たちの身の上に顕れてくるということを知っていただきたいと思います。
  たとえ、自分は正法に付くことができたと言っても、自行化他に亘る信心の実践がなければなりません。自行と共に、絶対に化他を忘れてはいけないということを御指南であります。
常に折伏を忘れず、注意をうながし、正法に導くことが大切であります。
  さあ、みんなで力を合わせ、謗法不信の人を正法の人へと導きましょう。(平成19年10月1日 広布祈念唱題会において)

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