平成19年11月1日発行 高照山 第239号
四条金吾殿女房御返事 (一)
文永12年1月27日 54歳

 「所詮日本国の一切衆生の目をぬき神をまどはかす邪法は真言師にはすぎず。是は且く之を置く。十喩は一切経と法華経との勝劣を説かせ給ふと見えたれども、仏の御心はさには候はず。一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星灯炬のごとしと申す事を詮と思しめされて候。なにをもってこれをしるとならば、第八の譬への下に一つの最大事の文あり。所謂此の経文に云はく『能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり』等云云。此の二十二字は一経第一の肝心なり、一切衆生の目なり。文の心は法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は衆星・江河・凡夫のごとしととかれて候経文なり。されば此の世の中の男女僧尼は嫌ふべからず、法華経を持たせ給ふ人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ、梵王・帝釈はあをがせ給ふらめとうれしさ申すばかりなし。又この経文を昼夜に案じ朝夕によみ候へば、常の法華経の行者にては候はぬにはんべり。『是経典者』とて者の文字はひととよみ候へば、此の世の中の比丘・比丘尼・うば塞・うばいの中に、法華経を信じまいらせ候人々かとみまいらせ候へば、さにては候はず、次下の経文に、此の者の文字を仏かさねてとかせ給ひて候には『若有女人』ととかれて候。日蓮法華経より外の一切経をみ候には、女人とはなりたくも候はず、或経には女人をば地獄の使ひと定められ、或経には大蛇ととかれ、或経にはまがれ木のごとし、或経には仏の種をいれる者とこそとかれて候へ。」(御書756n)

(内海雄幸師の講義)
 この御書は、文永12年1月に、四条金吾殿の女房が賜った御書でごさいますが、その前年の文永11年から、この年にかけて、四条金吾御夫妻にとって、大変な時期でありました。すなわち、文永11年9月の 『主君耳入此法門免与同罪事』に、
「かまえてかまえて御用心候べし。いよいよにくむ人々ねらい候らん」(御書744n)とございますように、主君の江馬光時を折伏したために、同僚からも憎まれれ、命まで狙われる危険が身に迫っていたのであります。
  また『四条金吾殿御返事』には、
  「貴辺のかたらせ給ふ様に持たん者は『現世安穏後生善処』と承って、すでに去年より今日まで、かたの如く信心をいたし申し候処に、さにては無くして大難雨の如く来たり候と云云」(御書775n)とございますように、大難が次から次へと絶え間なく襲って来たのであります。
  本日拝読の御文のあとに、
  「今三十三の御やくとて、御ふせをくりたびて候へば、釈迦仏・法華経・日天の御まえに申しあげ候ひぬ」(御書757n)とございますから、この文永11年の大変な時期に、四条金吾さんの奥さんは、33歳の女の大厄と言われる年に当たっておりまして、大聖人様に厄払いの御祈念をお願いしたようであります。その御返事がこの御書ではないかと拝せられるわけでございます。
  それでは今日拝読の御文に入りますと、「所詮日本国の一切衆生の目をぬき神をまどはかす邪法は真言師にはすぎず。是は且く之を置く」。日本国の一切衆生の眼をくらまし、また人のたましいを惑わす邪法は真言の開祖、宗祖達に過ぎた人師はいない。しかし、このことはしばらく置く。
「十喩は一切経と法華経との勝劣を説かせ給ふと見えたれども、仏の御心はさには候はず。一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星灯炬のごとしと申す事を詮と思しめされて候」。法華経の薬王品に説かれる十喩は法華経と一切経との勝劣を説かれたように見えるけれども、実は仏の御心はそうではない。一切経の行者と法華経の行者とを並べて、法華経の行者は日月等の如く勝れており、それに比べれば、諸経の行者は衆星(多くの星)や燈炬(ともしび・あかり、たいまつ・かがりび)の如く劣っているということを所詮(結論として究め得たもの)と思し召されたのである。
  「十喩」というのは、法華経の『薬王菩薩本事品第二十三』(法華経533n)に、諸水中海第一、衆山中須弥山第一、衆星中月天子第一、日天子除諸闇第一、諸王中転輪聖王第一、三十三天中帝釈天如王、大梵天王一切衆生之父、四果辟支仏凡夫中第一、三乗中菩薩第一、仏為諸法王という十の喩えをもって、法華経が一切経のなかで最も勝れていることを説かれています。この十喩は『三種教相』(御書74n)にも示されております。
ところが、釈尊が、この十喩をもって法華経の勝れている所以を説かれた御本意は、諸経の行者に比べて、法華経の行者が断然勝れているということをお説きになるところに、その所詮があったのである、というわけであります。
「なにをもってこれをしるとならば、第八の譬への下に一つの最大事の文あり。所謂此の経文に云はく「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の二十二字は一経第一の肝心なり、一切衆生の目なり。文の心は法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は衆星・江河・凡夫のごとしととかれて候経文なり」。何をもってこれを知るかと言えば、それは第八の喩えの下に最も大事な御文がある。いわゆる『薬王品』に、「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如く一切衆生の中に於いて亦これ第一なり」等云々(法華経534n)と説かれているのである。この二十二字は法華経第一の肝心である。一切衆生の眼目である。文の心は法華経の行者は日月、大梵天王、仏の如く勝れ、大日経の行者は衆星、江河、凡夫の如くと説かれた経文である。
「されば此の世の中の男女僧尼は嫌ふべからず、法華経を持たせ給ふ人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ、梵王・帝釈はあをがせ給ふらめとうれしさ申すばかりなし。又この経文を昼夜に案じ朝夕によみ候へば、常の法華経の行者にては候はぬにはんべり」それゆえに、いやしくも法華経を持つ人は世間の男女僧尼を問わず、一切衆生の主とこそ仏は御覧になっておられる。梵天や帝釈は同様に仰いでおられるであろうと、うれしさは限りがない。法悦の極みである。また、この経文を昼夜に念じ、朝夕に読み奉れば普通の法華経の行者ではない。非常に尊い行者なのであるということでございます。
  「『是経典者』とて者の文字はひととよみ候へば、此の世の中の比丘・比丘尼・うば塞・うばいの中に、法華経を信じまいらせ候人々かとみまいらせ候へば、さにては候はず、次下の経文に、此の者の文字を仏かさねてとかせ給ひて候には『若有女人』ととかれて候」法華経の『薬王品』のお経文に「是の経文を持つ者」とある、その「者」の字は人と読むのであって、この世の中の比丘・比丘尼・俗男俗女のなかに法華経を信ずる人々のことを指していると見えるけれども、そうではなくて、次下の経文にこの「者」の文字を仏は重ねてお説きになって、「若し女人有って」と説かれているのである。
『薬王品』には、
  「若し女人有って、是の薬王菩薩本事品を聞いて、能く受持せん者は、是の女身を尽して、後に復受けじ。若し如来の滅後、後五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の、大菩薩衆の囲遶せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」(法華経536n)と、特に女人が法華経を受持し、如説修行すれば、大変な功徳を受けると説かれているのであります。
  また法華経の『提婆達多品第十二』においては、八歳の竜女が即身成仏したことが説かれておりまして、ほかの経典には一切ない女人成仏ということが例証されております。さらに『勧持品第十三』においては、釈尊の母の妹の摩訶波闍波提比丘尼が一切衆生喜見如来、釈尊の妃であった耶輸陀羅比丘尼が具足千万光相如来という記別(成仏の保証)を頂いております。
  「日蓮法華経より外の一切経をみ候には、女人とはなりたくも候はず、或経には女人をば地獄の使ひと定められ、或経には大蛇ととかれ、或経にはまがれ木のごとし、或経には仏の種をいれる者とこそとかれて候へ」。日蓮は法華経以外の一切経を読んだ時には、女人には生まれたくないと思っていた。ある経には女人は地獄の使いと定められ、ある経には大蛇の如しと説かれ、ある経には曲がれる木の如しと説かれ、また、ある経には成仏の種を焦れる者と説かれている。
  「或経には女人をば地獄の使ひと定められ」また「或経には仏の種をいれる者とこそとかれて候へ」とございますが、同様の御文が『主師親御書』にも、
「華厳経には『女人は地獄の使ひなり、能く仏の種子を断ず、外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し』と」(御書51n)とあります。さらに『女人成仏抄』(御書345n)、『法華題目抄』(359n)、『法華初心成仏抄』(1317n)、『一代五時継図』(1631n)等にも記されております。
  しかし、華厳経の全文を検索いたしましても、この文は見当たりません。ただし、平安時代後期の平康頼が記した『宝物集』巻第四には、
  「『所有三千界の男子の諸煩悩を合集して一人と為し、女人の業障とす。女人は地獄の使いにして、能く仏の種子を断つ。外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し』。是は華厳経の文なり」(大日本仏教全書91ー37C)とありまして、古くから言い習わされていた言葉のようであります。
  類似の文としては『大智度論』巻第十三に、
  「邪婬の人、後に劍樹の地獄に堕ち衆苦備受す」(大正蔵25−157A)とあります。
  「或経に大蛇ととかれ」というのは、『大智度論』巻第十四に、
  「毒蛇の属は猶暫く近づくべし。女人は慳妬・瞋諂・妖穢・鬪諍・貪嫉、親近すべからず」(大正蔵25−165C)と説かれています。また『南条殿女房御返事』にも、
  「女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる」(御書1227n)というお言葉がございます。
  「或経にまがれ木のごとし」というのは、『大般涅槃経』巻第十に、
「一切江河は必ず回曲有り。一切の叢林は必ず樹木と名づく。一切の女人は必ず諂曲を抱く」(北本大正蔵12−426A、南本同12ー667B)と説かれております。『法華題目抄』にも、
  「涅槃経の文に、一切の江河のまがれるが如く、女人も又まがれりと説かれたるは、水はやわらかなる物なれば、石山なんどのこわき物にさへられて水の先ひるむゆへに、かしここゝへ行くなり。女人も亦是くの如し。女人の心を水に譬へたり。心よわくして水の如くなり」(御書359n)とございます。そこで、『四条金吾殿女房御返事』を注釈した『録内拾遺』巻八二・四丁には「木字は水字に作るべし」とありますが、大聖人様の御真蹟(日蓮聖人真蹟集成4−138)を拝見しますと、明らかに「木のごとし」とお書きになっておられます。あるいは、大聖人様は涅槃経の「一切の叢林は必ず樹木と名づく」というお経文に依られて、藪と林の中の立ち木は、曲がったものが多いから、ここでは「まがれ木のごとし」と仰せられたのかも知れません。
  大聖人様は『主師親御書』に、
  「只女人を指して苦の衆生と名づけたり。五障三従と申して、三つしたがふ事有りて、五つの障りあり」(御書52n)と仰せられております。「五障」については『大智度論』巻第九に、
  「女人は転輪聖王と作ることを得ず、天帝釋・魔天王・梵天王と作ることを得ず、仏と作ることを得ず」(大正蔵25ー125A)とあります。
  また「三従」については『大智度論』巻第九十九に、
「一切女身、繋属する所無く則ち悪名を受く。女人 の礼は、幼にしては則ち父母に従い、少にしては則ち夫に従い、老にしては則ち子に従う」(大正蔵25ー748B)とあります。中国の古典の『礼記』(郊特性第十一)にも、「三従」について、
  「婦人は人に従う者なり。幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う」と説かれています。
しかし、そのように低く見られていた女性が、法華経に至って、初めて女人成仏が許されたのでございます。そうして、老若男女を問わず、だれでも仏の命を持っている。仏の命を持っているのだから、それを開き顕せば仏の境界になる。それが必ずできるのだ、ということが仏様の教えでございます。法華経の教えのなかに、十界互具・一念三千という教えがあります。これは私達の命には地獄や餓鬼や畜生の命もある。それと同時に仏の命も持っているということでございます。その仏の命を「南無妙法蓮華経」というわけでございます。
  その仏の命を我々の実生活に顕すことを「御仏智を頂く」と申します。この妙法の功徳を説かれたのが、日蓮大聖人様の教えでございます。
  私達は、十界互具でございますから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六道の間を彷徨う六道輪廻という命も持っております。この六つの命は捨て去ることができませんから、仲良くお付き合いをしていくしかありません。それには自分自身がそれらをコントロールしていけばよいのです。しかし、自分の意思だけで完全にコントロールすることはできません。
  そこで、仏様のお悟り、お知恵を頂戴する。それが御本尊様に向かって、勤行・唱題をするということになるわけでございます。
  その仏様の命と同化していくためには、日々、怠りなく勤行・唱題をするという自行と併せて、折伏という化他行が不可欠でございます。
  平成21年の『立正安国論』正義顕揚七百五十年という年は、その地涌倍増、大結集という御命題の達成という大目標に向かって実践をさせていただくべき、またとない絶好のチャンスであると、このように考えなくてはいけないのではないかと思います。
  勤行・唱題、折伏を、まず皆様方一人ひとりが実践をして自身の心のなかに正法を確立「立正」していく。そうして、それを家庭、地域、国全体へと、どんどん輪を広げていって、安寧にしていくということが「広宣流布」ということでございます。これが究極の目的でございます。
  どうか皆様方におかれましても、本日拝読の御書で日蓮大聖人様が示されました法華経修行の功徳というものを固く信じて、本門戒壇の大御本尊様御図顕のこの月、そうして大聖人様が滅不滅の相を現ぜられた十月に、御報恩の誠を尽くし、なおいっそう、自行化他の修行に御精進いただきたいということを申し上げ、今日の御書講に代えさせていただきます。本日の御参詣まことに御苦労様でございました。
(平成19年10月14日 月例報恩御講において)

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