平成19年12月1日発行 高照山 第240号
新 池 御 書

 「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これただごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」(御書1457n)

(内海雄幸師の講義)
 焦熱地獄に堕ちて火炎にむせんでいる時は、次の世で人間に生まれたなら、信心修行をして、今度こそは成仏をしたいと思う。ところがいざ人間界に生まれてくると、名聞名利、つまり、世間の名誉・評判、利欲・利得に翻弄されて、心を磨くことを忘れてしまう。
  そうして、無駄遣いはするけれども、仏法僧の三宝に御供養することは億劫になってしまう。
  そもそも御供養には、法供養と財供養があり、法供養とは勤行・唱題や折伏などの信心の行体をもって御本尊にお供えすること、財供養とは金品をもって御本尊にお供えすることであります。その御供養を「ものうく思ふ」というのは、あれが買いたい、あそこに旅行がしたいというような理由で、御供養をすることに気が進まず、結局、御供養をしないということです。
  仏様は、一切世間から御供養を受けられるゆえに、仏の十号のうちに「応供」という御名があるのです。僧侶は在家の方の御供養を御本尊様にお取り次ぎするまでです。そうして、御本尊様にお給仕をいたしますので、御本尊様からお下がりを頂くわけであります。
  「地獄の使ひのきおふものなり」とは、御供養をすることが面倒で気が進まない。それは、地獄から来た使者が、互いに悪者同士として負けまいと張り合っているようなものである、ということです。
  「寸善尺魔」とは、世の中には善いことが、一寸のように少なくて、悪いことがその十倍の一尺のように多いということを言うのであります。
  御本尊様を信仰しているお陰で、心が豊かになって、周りの人達からも信頼され、生活が充実する。これが本当の功徳というもので、その御恩を感謝する意味で、御本尊様に御供養をする。そうして御供養をすることによって、知らず識らずのうちに、その功徳が自分の身に、生活のうえに返ってきているということが必ず実感できるはずであります。
御供養は金額の多寡ではなくて、自分の生活のなかで、精一杯の御供養を共々にさせていただいて、清々しい気持ちにさせていただくのだということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせていただきます。遅くまでの御参詣、まことに御苦労様でございました。
(平成19年11月1日 広布祈念唱題会において)

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