平成20年1月1日発行 高照山 第241号
三 沢 抄

 「此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光、巧匠の後に拙きを知るなるべし。此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて、但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候。各々はかゝる法門にちぎり有る人なればたのもしとをぼすべし」(御書1204n)

(通釈)
 この法門が一度末法に出現するならば正法、像法時代の論師、人師が弘めた法門は皆太陽が昇った後の星の光のように消え失せ、見事な名匠の作品を見て後の下手な拙き作品を知るようなものである。
  此の末法では正像二千年の寺院や宗旨の仏像や僧侶の祈りの霊験は皆消え失せて、但南無妙法蓮華経の大法のみが一閻浮提に広宣流布すると仰せられている。
  各々方はこのような尊い法門に有縁の人であり、頼もしい事と思わねばならない。

(解説)
 大聖人が竜の口の法難以後「佐渡の国より弟子どもに内々申す法門あり」と仰せになって末法の御本仏、大聖人が上行菩薩の再誕として御出ましになり、愈々三大秘法の大事な御法門を明かされ、正像二千年の諸宗の法門は爾前の権教である所以を述べられているのである。
  諸宗の仏像に霊験のない事を知らなければならない。此の御文を通して諸宗を打ち破り、念仏、真言等に執着している人を折伏しよう。

(内海雄幸師のお話)
 今月の拝読御書は、末法における大聖人様の教えこそが、私達が成仏を遂げていく教えであるということを簡潔に述べられています。
  まず「此の法門出現せば」というのは、大聖人様がお立てになった三大秘法の法門が出現したならば、ということであります。
  「正法像法に論師人師の申せし法門は」というのは、釈尊が入滅してから一千年間の正法時代、その後の一千年間の像法時代、都合二千年の間に、釈尊の教えについて「ああだ、こうだ」と解釈した論師人師は、たくさんいるわけです。
  そのなかで有名な人としては、禅宗の達磨大師とか、真言宗の弘法大師とかがおりますが、それらの人たちが説いた法門というものは、大聖人様の根本の仏法、三大秘法が出現した後においては、「皆日出でての後の星の光、巧匠の後に拙きを知るなるべし」ということであります。このお言葉は伝教大師の『天台法華宗伝法偈』に「今日出でて星收り、巧みを見て陋を知る」(御書1492n等に取意)とあるのに依られたものと思われます。もともと、竜樹菩薩の『大智度論』(巻第九)には、仏が独り諸の賢聖に比べて特に尊いことについて、「譬へば衆星は日の光既に出ずる則は沒して現ぜざるが如し」と述べられております。つまり、太陽が昇った後の星の光のように、皆、消え失せるということであります。また、名人上手と言われる人がこしらえた見事な作品を見た後では、凡人の作った下手な作品には感動しないようなものであるということであります。
  「此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて」、今、末法の時代になりますと、正法時代、像法時代に建てられ、また信仰され、尊ばれてきた仏像や僧侶たちの霊験は皆、消え失せてしまう。要するに、正法、像法の二千年間は未だ釈尊の教えの利益が残っていましたが、本当に成仏できる教えは法華経しかないけれども、その他の教えにおいても、分々の功徳がありました。ところが末法になりますと、それらの教えは全くその功力を失って、諸宗の仏像や僧侶たちの祈りも全く役に立たなくなってしまったということであります。
  「但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候」。大聖人様が三大秘法の大仏法を唱え出されて後においては、この南無妙法蓮華経の教えのみが全世界に広まっていく。このことは、法華経の『薬王品』に、
  「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(法華経539n)と予証されている通りになるということであります。
  本日の拝読御書『三沢抄』の御文のすぐ前には、
  「法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(御書1204n)とございまして、大聖人様は、三大秘法のうち、本門の題目については、建長5年の宗旨建立の時、唱え出されましたが、本門の本尊と本門の戒壇の実羲については、佐渡の御流罪以後に顕示あそばされているのであります。したがって、佐渡以前の法門は仏の爾前経のように、まだ真実の御法門が完全には顕れていないということであります。しかし、この『三沢抄』を賜った建治4年には、すでに本門の本尊も開顕されており、その恩恵に浴する時になっておりました。
  「各々はかゝる法門にちぎり有る人なればたのもしとをぼすべし」。各々方は、このような尊い法門に縁の有る人であり、頼もしいことと思わねばならない。「各々」とは、ひとり三沢さんだけではありません。私たち、末法において大聖人様の仏法に縁して信心をする人のことで、大聖人様が私たちに対して激励をされているわけであります。
  末法というのは「後の末世の、法滅せんと欲せん時」(法華経395n)という意味でありますが、この時は「闘諍言訟、白法隠没」(大方等大集経巻第五十五、分布閻浮提品第十七、大正蔵13−363B)と説かれております。つまり、戦争や言い争い、また訴訟が盛んになり、釈尊の清浄な仏法は隠れ没して、その功徳の力、利益を失ってしまう時代ということであります。
しかし、この末法こそ妙法蓮華経の大法が流布して、この妙法を受持する者は、諸仏・諸天によって守護されるのであります。このことは、法華経の『勧発品』にも、
  「後の五百歳濁悪世の中に於いて、乃至 如来の滅後に於て、閻浮提の内に広く流布せしめて、断絶せざらしめん」(法華経598〜603n)
と説かれております。
  また、中国の天台大師は『法華文句』(巻第一上)に「後五百歳遠く妙道に沾はん」と述べ、妙楽大師も『文句記』(巻第一上)に「末法の初冥利無きにあらず。且く大教の流行すべき時に拠る」と解釈しております。また、日本の伝教大師も『守護国界章』(彈謗法者大小交雜止觀章第十三)に「法華一乗の機、今正しく是其の時なり。何を以てか知ることを得ん。安楽行品に云はく、末世法滅の時」と記しています。
  法華経の『法師品』には、仏滅後に法華経を広めれば、世間の人びとから怨嫉や迫害を受けることを予言して、
  「而も此の経は、如来の現在すら猶怨嫉多し。況や滅度の後をや」(法華経326n)と説かれています。それだけに、それらの諸難を凌いで、諸宗を折伏することを貫けば絶大な功徳となるのであります。
  ゆえに、大聖人様は『撰時抄』に、
  「正像二千年の大王よりも、後世ををもはん人々は、末法の民にてこそあるべけれ。此を信ぜざらんや。彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱ふる癩人とはなるべし」(御書838n)と仰せであります。
  今、世間には悩みを抱えている人がいっぱいおります。これらの人びとを見て見ぬふりをしていてはいけません。どうか皆様方には、そういう折伏対象者にきちんと眼を向けて、折伏を実践していっていただきたいということを申し上げまして、今日の御挨拶に代えさせていただきます。本日の御参詣まことに御苦労様でございました。
(平成19年12月1日 広布祈念唱題会において)

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