平成20年2月1日発行 高照山 第242号
一 谷 入 道 女 房 御 書
建治元年五月八日  五四歳

 去ぬる弘長元年太歳辛酉五月十二日に御勘気をかをほりて、伊豆国伊東の郷というところに流罪せられたりき。兵衛介頼朝のながされてありしところなり。さりしかどもほどもなく同じき三年太歳癸亥二月に召し返されぬ。又文永八年太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽ちに頚を刎ねらるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の島を知行する武蔵前司の預かりにて、其の内の者どもの沙汰として彼の島に行き付きてありしが、彼の島の者ども因果の理をも弁へぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申す計りなし。然れども一分も恨むる心なし。其の故は日本国の主として少しも道理を知りぬべき相模殿だにも、国をたすけんと云ふ者を子細も聞きほどかず、理不尽に死罪にあてがう事なれば、いわうやそのすへの者どものことはよきもたのまれず、あしきもにくからず。
 此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り、名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思ひ儲けしなり。(御書826n)


(内海雄幸師の講義)
  本日拝読の御書は、当時、身延におられた日蓮大聖人様が、佐渡国石田郷一谷という所に住んでいた一谷入道という方の女房へ送られたお手紙であります。 
大聖人様は、文永8年11月から佐渡の塚原三昧堂で配所の生活を始められたわけですが、その翌年の4月からは一谷入道の屋敷に移られました。そうして、御赦免になられた文永11年3月まで、一谷におられたわけであります。
  その間に、この御書のあとの方に出てきますが、鎌倉から尼の御信徒が佐渡まで、大聖人様にお目通りするために訪れて参りましたが、帰りの旅費に窮してしまいました。そこで大聖人が口入れされて、一谷入道からその費用を借用したので、そのときのお礼として法華経一部十巻をお渡しする。入道よりも姥(祖母)は内々信心の気持ちがあるから、姥が、この法華経を持つようにしなさい、ということが述べられています。
  それでは本文に入りますと、
  「去ぬる弘長元年太歳辛酉五月十二日に御勘気をかをほりて、伊豆国伊東の郷というところに流罪せられたりき。兵衛介頼朝のながされてありしところなり。さりしかどもほどもなく同じき三年太歳癸亥二月に召し返されぬ」。去る弘長元年五月十二日に御勘気を蒙って、伊豆の国伊東の郷という処に流罪せられた。源の頼朝がかつて流された処である。しかしそれから程なく弘長三年二月二十二日に赦されて召し返された。
これは、大聖人様が御年40歳の時、弘長元年から弘長3年まで、伊豆の伊東に御流罪になったことを振り返っておられます。この伊豆の国という所は、かつて源頼朝が流されていた所で、頼朝は、ここを拠点として、東国の武将を糾合して、平家を討伐したわけであります。奥方の北条政子も伊豆の出身でありました。
  「又文永八年太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽ちに頚を刎ねらるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて」、又文永八年九月十二日に重ねて御勘気を蒙り、たちまちに頚を刎られるところであったが、子細が有ったようでしばらく延長されて、ということであります。
これは文永8年9月12日の竜口の法難を指しています。「御勘気」というのは、主君や父のような上の人から受ける叱りとか、咎めとか、勘当とかを言います。この場合は、鎌倉時代の法律「御成敗式目」(貞永式目)の第12番目に「一悪口咎めの事 右闘殺の基は悪口より起こる。其の重き者は流罪に処せらる」と定められていますので、これを無理矢理に当てはめて、大聖人様を流罪に処したわけであります。大聖人様の教えは決して自讃毀他ではありません。全部、経典に基づいて他宗を破折しておられるのです。
  竜口の法難において、大聖人様は頚を刎ねられようとしましたが、江ノ島の方から光り物が飛んで来て、太刀取りの目が眩み斬ることできませんでした。そうして「子細ありけるかの故に」というのは、『種々御振舞御書』に「夜明くれば十四日、卯の時に十郎入道と申すもの来たりて云はく、昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大いなるさわぎあり」(御書1062n)とあり、また日朝の『元祖化導記』にも「鎌倉より使者の立て腰越へ申し下さるる様は、鎌倉中に大なる物の怪これ有り、日蓮房誅すべからずとの由これ有り」とありますから、当時、鎌倉の執権北条時宗の館などにおいて異変が起ったことも、大聖人様の斬首を中止することになった一因と考えられます。

 「北国佐渡の島を知行する武蔵前司の預かりにて、其の内の者どもの沙汰として彼の島に行き付きてありしが、彼の島の者ども因果の理をも弁へぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申す計りなし」。北国佐渡の島を知行する式蔵前司の預かりによって、その内の者達の沙汰として佐渡の島へ行き着いたのであるが、この島の者達は因果の道理をも弁えない荒夷なので、荒くあたることは言うまでもない。
鎌倉幕府の命令によって佐渡島を支配しているところの、前の武蔵守北条(大仏)宣時が預かり役となって、その配下の者たちが警固をして佐渡島に着いたということです。この島の者たちは「あらえびす」というのは、中国において漢民族は中華思想に基づいて、周囲の異民族を「東夷・西戎・南蛮・北狄」と侮蔑して呼んでいました。そういうところから、わが国でも、都の人が野蛮な東国人を指して「荒夷」と言うようになったと言われています。大聖人様が佐渡に御流罪になった当時の佐渡島の人たちも荒夷同様で、大聖人様に対して辛く当たったということであります。
  「然れども一分も恨むる心なし。其の故は日本国の主として少しも道理を知りぬべき相模殿だにも、国をたすけんと云ふ者を子細も聞きほどかず、理不尽に死罪にあてがう事なれば、いわうやそのすへの者どものことはよきもたのまれず、あしきもにくからず」。しかしながら一分も恨む心はない。その故は日本国の主として少しの道理は知っているはずの相模殿でさえも、国を助けるという者の子細も聞き解かず、理不尽に死罪にあてがうのであるから、言うまでもなくその末の者達は善いものもあてに出来ず、悪いものも憎くないのである。
「相模殿」というのは、当時の鎌倉幕府の執権、相模守であった北条時宗のことですが、日本の国の政治の実権を握っていた最高権力者でありましたので、ここでは「日本国の主」と言われているわけであります。「国をたすけんと云ふ者」というのは、大聖人様が御自身のことを指しておっしゃっておられるのであります。執権の北条時宗でさえ、本当に心から国を助けようとなさっている大聖人様の諌言を聞かずに、死罪に行おうとしたのですから、その他の者は言うに及ばず、善くても頼りにならず、悪くても当然であって、憎むわけにはいかないということであります。
  「此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り、名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思ひ儲けしなり」。此の法門を申し始めた時より、日蓮が命は法華経に捧げ奉り、名を十方世界の諸仏の浄土に流布せしめようと思い用意してきたのである。
「此の法門を申し始めしより」というのは、大聖人様が、御年32歳の時、建長5年(1253)4月28日に、初めて南無妙法蓮華経の御法門を説き出された立宗宣言の時を指しております。それ以来、大聖人様は不自惜身命の御覚悟をもって、南無妙法蓮華経の大法を広められ、この世での地位や名誉は一切望んでおられない。ただ、大聖人様御自身の御名を、十方世界の諸仏のおわします浄土に広め残そうということだけを思い、命がけで励んできたのであるという御意と拝せられます。
今日、拝読いたしました御文のあとにおきましては、大聖人様は、死罪・流罪になることを兼ねて御存知ではありましたが、今の日本国は法華経に背き、釈迦仏を捨てているゆえに、後生には無間地獄に堕ち、今生にも他国侵逼の難等に遭うであろう。したがって、仏恩の重いゆえに、人を憚らずに、特に念仏宗の謗法を破折するのであるということを仰せられております。
  一谷入道夫妻も、文永9年の夏のころに、大聖人様が佐渡国石田郷一谷に移られた当初は、怖じ恐れており、これまで久しく念仏を信仰してきて、阿弥陀堂まで造っていたのであります。しかし、そのまま念仏を信仰していては、無間地獄に堕ちることは疑いないと、大聖人様は、一谷入道を折伏なされたのでございます。
  そもそも、どんな人間にも欠点があり、十界互具ということがそれを表しています。したがって、私たちは、一生懸命、正法の信心をして、自分自身の心を磨いて、過去の宿業を克服していく以外には本当の幸せはないということが、大聖人様の教えであります。
  現在、日蓮正宗に入信したものの、何となく他宗の信心にも心を惹かれるというような人もおられるでしょう。そういう人には、道理を尽くしてお話をして、信頼される人間関係を築きながら、心に折伏というものを置いて、大聖人様が、一谷入道夫妻を教導あそばされたように、誠実に努めていただきたいと思います。(平成20年1月13日 月例報恩お講において)

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