平成20年2月1日発行 高照山 第242号
妙光寺執事 内海 雄幸

天璋院篤姫について

 皆さん、お早うございます。ただ今は今年初めての全国統一の広布唱題会に当たりまして、妙光寺支部、正道講支部の折伏の誓願目標の達成を、謹んで御祈念申し上げた次第でございます。
  皆さん方が、これから1年間折伏をなさっていくうえにおいて、この年の始めは非常に重要な意味がございます。全国津々浦々、もしくは世界のどの寺院の支部におきましても、この年の始めを折伏の月間と銘打ちまして、まずスタートダッシュをするということで、そのように決めているわけであります。皆さん方も、全国の法華講員と足並みを揃えて、精進していただきたいと思うものでございます。
  さて、受付に今年、NHKの大河ドラマのヒロインであります「篤姫」という方が日蓮正宗の信徒であったという、そういうパンフレットと、掲示板の方には、そのことを示す古文書がカラーコピーで掲げられているわけでございます。
  この篤姫の入信の経緯を見ますと、まず誰から折伏が始まっているのかと言えば、それは幕末に向島の常泉寺信徒の高野周助という商人から始まっているようでございます。高野周助という人は、商人ですから、あちこちのお大名の屋敷に出入りをしておりました。そのなかで奥羽の八戸藩の江戸屋敷が芝増上寺の西側にありまして、そこで取引をしているうちに、八戸藩の老女(侍女のかしら)と親しくなり、大聖人様の仏法の話をするようになって、その老女が入信をされました。
  そうして、その時の八戸藩の藩主は南部信順という方でした。そもそも南部家というのは、大聖人様が甲斐国波木井郷の身延に入山された時、そこの地頭は南部六郎実長という人でしたが、この実長の父とされている南部光行という人が、八戸藩南部氏の先祖と言われております。
  幕末の八戸藩の藩主、南部信順は、もとは、島津氏第25代当主で薩摩藩第8代藩主の島津重豪という人の第13男で、八戸藩南部家の養子になったのです。そうして、重豪の曾孫で、5歳年上の薩摩藩第11代藩主島津斉彬を折伏したわけであります。この島津斉彬という人は、西郷隆盛、大久保利通などの薩摩藩における幕末の志士を生み出した人として、日本の歴史上では、有名な藩主でございます。この斉彬が入信したので、その養女となっていた篤姫も入信したという次第であります。
  そうして、篤姫は、嘉永6年(1853)に、鹿児島を発って、芝の増上寺の南側、赤羽橋付近にあった薩摩藩江戸屋敷に入ったのです。
  当時、江戸幕府の第13代将軍の徳川家定は、まだ次期将軍として右大将と称していた時分に、正室の有君(鷹司政直の女、天保12年11月25日婚儀、嘉永元年6月10日死去、天親院と称す)、および次の継室となった嘉明君(一條忠良の養女、嘉永2年11月22日婚儀、同3年6月24日死去、澄心院と称す)という二人の奥方を相次いで亡くしていました。そうして、嘉永6年(1853)7月22日には、家定の父、12代将軍徳川家慶が死去したので、家定が13代将軍となり、篤姫が、家定の継室として、江戸城に輿入れすることになったわけであります。
  篤姫は、安政3年11月11日に、渋谷の松平(島津)薩摩守斉彬の下屋敷(現在の渋谷駅の東1キロ足らずの所にあった)から、直ちに江戸城本丸の御広敷へ輿入れし、同年12月18日に、当時21歳の篤君と33歳の徳川家定との婚礼の内祝いが行われました。
  しかし、家定は、安政5年(1858)8月8日に急病で、35歳をもってこの世を去ることになります。 このように、家定と篤君の結婚生活は約1年半の短いものに終わり、御台所(篤君)は、同年8月29日に、落飾して天璋院と称されることになりました。
  ところで、篤姫が信心修行の場としたのは、向島の常泉寺であります。
  その当時、嘉永6年(1853)6月5日には、アメリカからペリーが艦隊を引き連れて浦賀にやって来る。またオランダ、ロシア、イギリス、フランスなどが、日本に通商条約を求めて、異国船が下田や江戸近海に次々に渡来して来る。そこで日本国内では、尊皇か佐幕か、攘夷か開国か、というようないろんな意見が沸騰して、侍同士が反発を仕合うというような物情騒然たる世の中でありました。
  そんなときに、後継の14代将軍として、徳川御三家の紀伊家から、慶福(家茂)が、当時13歳の養君ということで、安政5年6月に江戸城に入って来る。また養父の島津斉彬が同年7月15日に亡くなる。次いで夫の徳川家定も同年8月8日に急死をする。そういうことが重なって、天璋院も、かれこれと心を煩わすなかで、翌年の安政6年10月17日には江戸城本丸が炎上して、西丸へ移らねばならないことになり(温恭院御実紀)、その後も何かと心配なことが続きました。
  そこで、天璋院は、世情静謐・天下泰平を願う御祈念を、当時、常泉寺の御住職としておられた御隠尊第51世日英上人に願い出られたのであります。よって日英上人は、万延元年(1860)の3月14日から翌月の閏3月および4月5日まで、合計51日の間、1日4時間ずつに分けて3回、12時間、総計612時間の唱題を奉修なさいました。
  その結果、不思議な御利益をもって、追々世上は穏やかになり、天璋院も満足に思し召されたのか、常泉寺ならびに日英上人に結構な拝領物をたくさん賜ったということでございます。
  常泉寺は、かつて第6代将軍徳川家宣公の正室、天英院の厚い帰依を蒙っていた由緒がありましたが、それから百二十有余年の間、将軍家とは縁遠くなっていたところへ、この度の祈祷の御挨拶として拝領物をいただいたことは、末代当寺の由緒となり、軽いことと思ってはならない、ということが、妙光寺所蔵の日英上人御筆の『時々興記留』という古文書に書かれているわけでございます。
  そこで私が申し上げたいことは、どのような時代、どのような環境、どのような身分等々であっても、やはり正しい信心を持って唱題を貫き、僧俗和合の実を上げていた人たちが実際に幕末にいたのだということであります。
  このことは幕末だけではなく、今でもお互いに正法を広めるために努め、僧俗和合の姿を築き上げていかなくてはいけないわけであります。
  皆様方におかれましては、この年の始めに当たりまして、信心の繋がり、人間関係の繋がりを大事にするならば、折伏をして、みんなが本当に平和な幸せな境涯を築いていかなければいけないのだという思いを新たにして、今年1年、精進をしていただきたいということを申し上げまして、御挨拶に代えさせていただく次第でございます。本日の御参詣まことに御苦労様でございます。(平成20年1月6日 広布唱題会において)

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