平成20年2月1日発行 高照山 第242号

編集室の補記

 青森県八戸市玄中寺所蔵の嘉永6年(1853)9月1日付け、第51世日英上人御筆、八戸の信徒渡辺重兵衛宛ての御返事によると、
  「扨て度々有り難き事は遠江守(南部信順)様え高 野周助より種々法義筋申し上げ、当春御入国に付き、色々手段相廻し、折能く喜佐野と申す御老女、周助教化致し、今春幸ひ御供にて御国え参り候に付き、先年法難(弘化元年、1844年の八戸法難)の節、御取り上げに相成り候尊像御三体、御本尊廿一幅、大石寺へ下し置かれ候様、喜佐野殿へ程能く願い含め置き候処、折こそ有り、右喜佐野今年卅七歳、大厄年の処、当夏中、大病相煩い、先々大切にも及ぶべき処、兼ねて周助より願ひにて愚老(日英上人)より遣はし置く御秘符頂戴致し、七日立たざる内、 本復致し、殿様も奇代に思し召される処え、右喜佐野より闕処蔵入りの尊像・御本尊等の儀願い上げ候処、即時に御取り出しに相成り、六月中より殿様御居間に御安置、日々、御膳等上り、喜佐野殿等御題目修行候由、喜佐野より周助へ申し参り候旨、此の程周助より申し越し候」(諸記録第九部45〜46)とある。
つまり、八戸藩藩主南部信順が入信した経緯は、常泉寺信徒で、京橋に住んでいた高野周助が、かねがね商用で出入りしていた八戸藩の江戸屋敷で、藩主の南部信順に、本宗の法義をお話申し上げていた。
  さらに、八戸藩の老女の喜佐野という女性も、高野周助の教化を受けており、この年、嘉永6年の春に、藩主のお供をして国元の八戸に帰国することになったので、8年ほど前の法難の時、八戸の信徒たちが取り上げられてしまった、御影3体と御本尊21幅を大石寺に返してくれるようにと、お願いをするように言い含めて置いた。ちょうど、この年は、喜佐野が37歳で女の大厄年に当たっており、同年の夏(4〜5月ごろ)に大病を患らい、一命にも関わるほどであったが、日英上人は、同年6月に日霑上人に猊座をお譲りになる前に、兼ねて高野周助の願いにより御秘符を下付されていたので、喜佐野がその御秘符を服用したところ、そのお陰で、7日も経たないうちに病気は全快した。
  このことを藩主の南部信順も不思議なことと思われて、これまで藩の命令で禁制となっていた正宗の信心が許され、取り上げられて蔵に入れられていた御影や御本尊を蔵から取り出して、6月中に殿様の居間に安置し、毎日お膳などもお供えして、喜佐野等もお題目を唱え修行するようになった。そこで当然、藩主の南部信順も信心をするようになった模様である。
  八戸藩主南部信順は、のちに文久元年(1861)に八戸に玄中寺を建立するほどの大信者になったのであるが、この方の入信が、実家筋の薩摩藩の藩主、島津斉彬の入信に繋がり、その養女、天璋院篤姫の入信に至ったわけである。
  なお、篤姫の表向きの父は島津斉彬で、母は側室の寿満とされていたが、実は養父母であって、実父は島津斉彬の叔父の島津安藝忠剛、実母は島津助之丞久丙の娘であるという。篤姫の幼名は一と称されていた。 篤姫の誕生日は、天保6年12月19日とされているが、これを太陽暦に換算すると、西暦1836年2月5日に相当する(日本暦日原典)。
  篤姫が近衛家の養女となった時期については『時々興記留』には「八ヶ年以前(嘉永6年)江戸御下関ノ節、京都ニ於テ近衛様御養女ト成ラセラレテ」とあり、『幕末英傑録、天璋院』には「(嘉永6年)8月21日鹿児島を出立する。10月2日近衛邸に参殿し、○10月23日江戸、芝藩邸にはいった」とあるだけで、近衛殿の養女となったことは記されていない。『鹿児島県史料 旧雑記追録』には「安政三年丙辰七月七日近衛忠熙公養女と為り、諱を敬子と賜ひ、篤君と称す」とあるとのことであるが、『温恭院殿御実紀』には、篤姫が江戸城に輿入れした直後の「(安政三年十一月)十五日 篤君御方御弘め令○近衛殿御養女之令」とあるから、この時、近衛公の養女として公表されたのであろう。養父となった近衛忠熙は天英院の実父、近衛基熙の7代あとの末裔である。
天璋院は、明治16年(1883)11月10日、東京の一橋邸において48歳で亡くなり、上野の寛永寺に、夫の家定の墓と並べて埋葬された。戒名は天璋院殿敬順貞静大姉という。
  また、教化の元となった高野周助は、幕末から明治の前半にかけて、京橋の講中に属しており、同講中の講頭で、常泉寺の檀徒であった松島覚道とも親交があった。覚道の曾孫、現妙光寺総代の松島晃靖氏宅には、明治13年(1880)7月2日に、日霑上人が高野周助に宛てた御書状(加藤慈雲師が病気になられたこと、山口俊旭師を常泉寺の後任住職として願い出たことなど、高野周助が大阪に御逗留中の日霑上人にお知らせした、その御返事)が所蔵されている。当時、高野周助は常泉寺の有力な信徒であったことがわかる。

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