平成20年4月1日発行 高照山 第244号
一 谷 入 道 女 房 御 書 (三)
建治元年五月八日  五四歳

 「日本国は仏法盛んなるやうなれども仏法について不思議あり。人是を知らず。譬へば虫の火に入り鳥の蛇の口に入るが如し。真言師・華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗等の人々は我も法をえたり、我も生死をはなれなんとはをもへども、立てはじめし本師等依経の心をわきまへず、但我が心のをもひつきてありしまゝに、その経をとりたてんとをもうはかなき心ばかりにて、法華経にそむけば仏意に叶はざる事をばしらずしてひろめゆくほどに、国主万民これを信じぬ。又他国へわたりぬ。又年もひさしくなりぬ。末々の学者等は本師のあやまりをばしらずして、師のごとくひろめならう人々を智者とはをもへり。源にごりぬればながれきよからず。身まがればかげなをからず。真言の元祖善無畏等はすでに地獄に堕ちぬべかりしが、或は改悔して地獄を脱れたる者もあり。或は只依経計りをひろめて法華経の讃歎をもせざれば、生死は離れねども悪道に堕ちざる人もあり。而るを末々の者此の事を知らずして諸人一同に信をなしぬ。譬へば破れたる船に乗りて大海に浮かび、酒に酔へる者の火の中に臥せるが如し。日蓮是を見し故に忽ちに菩提心を発こして此の事を申し始めしなり。世間の人々いかに申すとも信ずることはあるべからず」(御書827n)

(内海雄幸師の講義)
 本日、拝読の御文に入りますと、
  「日本国は仏法盛んなるやうなれども仏法について不思議あり。人是を知らず。譬へば虫の火に入り鳥の蛇の口に入るが如し」。日本国は仏法が盛んなようであるが、仏法に就いて、不思議な事がある。世間の人々は、これを知らない。例えば、虫が飛んで火に入り、鳥が蛇の口に入るようなものである。
  我が国では、特に葬儀などを、大多数が仏教で行っています。また「玄関」という言葉は、本来は仏教用語で、玄妙な道、つまり奥深い仏道への関門、入り口という意味なのです。「奈落の底」という言葉も、ナラカ、つまり地獄という仏教用語から来ているのです。また「六道輪廻」ということも、衆生に具わる十界のうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六界の間を彷徨うことを申します。そのように、我が国は物心両面にわたって仏教と縁が深く、仏教の盛んな国のように思われます。しかし、この仏法の教えの内容については、ほとんどの人は深く知っていないのです。そうして、間違った宗旨を信仰してしまうのは、あたかも、飛んで火に入る虫であり、蛇の口に自分から入っていく鳥のようなものだというわけであります。
  「真言師・華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗等の人々は我も法をえたり、我も生死をはなれなんとはをもへども、立てはじめし本師等依経の心をわきまへず、但我が心のをもひつきてありしまゝに、その経をとりたてんとをもうはかなき心ばかりにて、法華経にそむけば仏意に叶はざる事をばしらずしてひろめゆくほどに、国主万民これを信じぬ」。真言師、華厳宗、法相、三論、禅宗、浄土宗、律宗等の人々は我も法を得た。我も生死を離れ、成仏したと思っている。しかし、最初にその宗旨を立てた本師たちが、その依経の心を弁えず、ただ自分の心の思い付きのままに、その依経を取り立てようとする浅薄愚劣な心ばかりであるから、法華経に背けば、仏意に叶わない事を知らずして弘めていく程に、国主も万人もこれを信じてしまったのである。
わが国には、東寺・高野山等の真言宗、東大寺等の華厳宗、興福寺・薬師寺等の法相宗、南都六宗の一つの三論宗(今は衰滅)、妙心寺・建長寺・万福寺・永平寺等の禅宗、知恩院等の浄土宗、唐招提寺等の律宗などの宗旨があります。これらの宗旨の僧侶や信者たちは、自分たちこそ本当の仏法を得たと思っています。また生死、つまり、生まれ変わり死に変わり、限りなく流転していく迷いの世界を脱却して、永遠の成仏の世界に到達することができると思っていますが、そうはいかない。なぜならば、これらの宗旨を開いた祖師たちが、その拠り所とするお経の本意を弁えずに、ただ自分勝手な解釈で、思いつくままを広めたものだからです。たとえば、真言宗では善無畏・金剛智・不空等が大日経・金剛頂経・蘇悉地経などの真言三部経等を依経としました。華厳宗では杜順・智儼・法蔵・澄観等が華厳経を依経としました。法相宗では玄奘等が解深密経や瑜伽師地論や唯識論等に依りました。禅宗では達磨・慧可等が楞伽経・金剛般若経等に依り、あるいは教外別伝・不立文字と称しました。浄土宗では曇鸞・道綽・善導等が観経・双観経・阿弥陀経の浄土三部経を依経としました。そうして、それらの祖師たちが、自分の気に入った経典を取り立てて、世間に広めようとしたのです。そういう我意によったものですから、仏様の本懐である法華経の心に叶わない教えが広まってしまったのです。そうして、そのことに気付かず、国主を始め万民がこれを信ずるに至ったのです。
「又他国へわたりぬ。又年もひさしくなりぬ。末々の学者等は本師のあやまりをばしらずして、師のごとくひろめならう人々を智者とはをもへり。源にごりぬ ればながれきよからず。身まがればかげなをからず」。また他国へ伝えられた。また、年も久しくなった。末々の学者達は本師の誤りを知らずして、師の如く弘め習う人を智者と思っている。諸宗の源が濁っていると、その流れは清いはずがない。身体が曲がれば、その影も真直ぐではない。
お釈迦様が説かれた仏教は、インドから中国に渡り、そこで、真言宗や華厳宗や法相宗や三論宗や禅宗や浄土宗や律宗等の開祖たちによって、それぞれの宗旨が広められ、それらの宗旨は、朝鮮を経て、日本国に伝来いたしました。我が国に初めて仏教が伝わったのは、『日本書紀』(巻十九)では、欽明天皇十三年壬申(西暦552年)十月に、百済の聖明王の使者が釈迦仏の金銅像や経論などを天皇に献上したのが最初とされています。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』によりますと、戊午(西暦538年、天台大師誕生の年)に、百済の聖明王の時、仏像・仏器・仏書などを渡したとありますから、大聖人様が、この『一谷入道女房御書』をお認めになるまでに、740年近い長い年月が経過していることになります。
  そうして、諸宗の末流の学者等は、自分たちの宗旨を開いた祖師の誤りを知りません。一例を挙げますと、法華経の『薬王品』には「(法華経は)一切の諸の経法の中に於て、最も為れ第一なり。仏は為れ諸法の王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり」(法華経535n)とあるにもかかわらず、日本の真言宗の開祖、弘法大師空海は『秘蔵宝鑰』(巻第中)に「此くの如きの乗々は自乗に仏の名を得れども、後に望めば戯論と作る」(大正蔵77ー374C)と書いて、法華経を大日経や華厳経より劣る第三の経典と下しているのであります。それにもかかわらず、末学の者は、それを知らずに、祖師の通りに広め倣う者を智者と讃えている始末であります。
  「源にごりぬればながれきよからず」というのは、中国の古典の『荀子』(君道篇第十二)に、「原清ければ則ち流清し、原濁れば則ち流濁る」ということが記されています。この言葉は、君が正しければ民も正しくなり、君子が正道を踏み外したならば、官人も邪道を行ずることになるということを戒めた言葉でありますが、大聖人様は諸宗の開祖の誤りを指摘される際の譬えとして、『十章抄』(御書465n)や『種々物御消息』(同1245n)等においても、この言葉を使われております。
また「身まがればかげなおからず」という譬えは、『諸経と法華経と難易の事』には、「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なヽめなり」(御書1469n)と仰せられております。
  「真言の元祖善無畏等はすでに地獄に堕ちぬべかりしが、或は改悔して地獄を脱れたる者もあり。或は只依経計りをひろめて法華経の讃歎をもせざれば、生死は離れねども悪道に堕ちざる人もあり」。真言宗の開祖である善無畏や、諸宗の開祖達は、すでに地獄に堕ちてしまった。しかし、その謗法の罪を悔い改めて地獄を免れた者もあったり、或は唯各自の依経だけを弘めて、法華経を讃めもしなければ、識りもしないので、生死を離れないまでも、悪道には堕ちない者もあった。
  真言宗の開祖の善無畏三蔵が自ら語った言葉として、一行の『大日経疏』(巻第五)によれば、善無畏は、あるとき重病に罹って意識を失い、冥府の閻魔大王のもとに連れて往かれ、忿怒の形相をもって訊問されたが、やがて放免されて帰り、蘇生したということが記されています。このことは、『善無畏三蔵抄』(御書442n)・『善無畏抄』(同505n)・『兄弟抄』(同977n)・『破良観等御書』(同1075n)・『神国王御書』(同1303n)等々にも述べられています。
  また中国の三論宗の祖、嘉祥寺の吉蔵は、天台大師に伏して、法華経の講義を請うております(国清百録、吉藏法師請講法華経疏第一百三)。『開目抄』には「例せば、三論の嘉祥は法華玄十巻に、法華経を第四時『会二破二』と定むれども、天台に帰伏して七年つかへ、『廃講散衆、身為肉橋』となせり」(御書555n)とあり、自らの身を投げ出して天台に帰依したことが『続高僧伝』(巻第十九、潅頂伝十、御書1331n)に記されています。
  「而るを末々の者此の事を知らずして諸人一同に信をなしぬ。譬へば破れたる船に乗りて大海に浮かび、酒に酔へる者の火の中に臥せるが如し」。しかし、その理由を後世の人が知らないで、多数の人々が一同にその教えを信じているのである。譬えるならば、壊れた舟に乗って大海に出たり、酒に酔っている者が、火の中で寝たりするような危険この上ない信仰である。
  ところが、末流の人たちは、そういう本当の事情を知らないで、みんな本師の言うことを鵜呑みにして信じているわけです。それは大変、危険なことだというわけであります。
「日蓮是を見し故に忽ちに菩提心を発こして此の事を申し始めしなり。世間の人々いかに申すとも信ずることはあるべからず」。日蓮はこの諸人の地獄に堕ちる有様を見たために、衆生を救済しようという大菩提心を起こして、この法華の法門を唱導し始めたのである。世間の人々がいかに言われようとも、諸宗を信じてはなりません。
  「菩提心」というのは、無上道心と申しまして、悟りを求めて仏道を修行し、衆生を救済していこうという心です。ただ故人に対して追善供養するだけのものではありません。
  どうか、皆様も本日の御書にありましたように、さまざまな思想、宗教というものの立て分けをよく知って、諸宗の誤りとその害毒、日蓮正宗の正しさとその功徳、そういう道理と現証を、はっきりと世間の人たちに示して、折伏を行じていただきたいと思うのであります。平成21年『立正安国論』正義顕揚750年に向かって精進していく意義も、またそこにあります。(平成20年3月9日 月例報恩御講において)

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