平成20年4月1日発行 高照山 第245号
四 条 金 吾 殿 御 返 事
文永九年 五十一歳

 「法華経に云はく『若し善男子善女人、我が滅度の後に能く窃かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ如来の所遣として如来の事を行ずるなり』等云云。法華経の一字一句も唱へ、又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使ひなり。然れば日蓮賎しき身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たれり。此を一言もそしらん人々は罪無間を開き、一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもすぎたりと見えたり」(御書620n)

(通釈)
 法華経に「若し善男子、善女人があって、我が滅度の後、僅か一人の為に、法華経の一句なりとも説くものがいるならば、その人は則ち、如来の使いであって、如来の所遣として如来の事を行ずる者である」と云われているように、法華経の一字一句を唱え、若しくは人に説き聞かせる者は、教主釈尊の御使いである。したがって、日蓮は賎しい身ではあるが、教主釈尊の勅宣を蒙って、法華経を弘める為に日本国に生まれた者である。それ故、たとえ一言でも日蓮を謗る人々は無間地獄に堕ち、一字一句でも供養する人々は、無数の仏を供養するにも勝れている。

(解説)
  末法においては、釈尊を供養する事よりも、法華経の行者たる日蓮大聖人を供養する事の方がはるかに勝れているのである。末法の仏は宗祖大聖人であり、印度出現の釈尊ではないからである。ここで言う如来の使、如来の所遣、如来の事を行ずるという事は、釈尊自らが末法の化導の任ではないという事を明確に示された御文である。したがって、私達は、大聖人の弟子として、どこまでも大聖人に従い、大聖人を供養し、大聖人に御報恩の誠を尽くし、折伏を第一義とするのである。

(住職法話)
  皆さんは、春季総登山の折、御法主上人猊下の御指南を直接賜ったと思います。
  明年の総登山におきましては、海外の御信徒も、5回にわたって登山が行われ、1回につき4千名、合計2万人の海外信徒が総本山に集うことになっている次第でございます。こういう海外の方々の志をさらに超えるように、何としても、猊下の御指南を全うする気概のもとに、頑張っていただきたいと思います。
  本日の拝読御書の「若し善男子善女人、我が滅度の後に能く窃かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん」等という御文は、法華経の『法師品第十』(法華経321n)のお経文でございます。「如来の使ひ如来の所遣として如来の事を行ずるなり」とは、大聖人様が末法の御本仏として日本国に御出現になって、一切衆生救済の大仏法として、三大秘法を建立あそばされ、御生涯を通して、あらゆる難を凌がれて、妙法広布のために終始一貫されたということは、全部、教主釈尊の御使いとして、その勅宣、みことのりを頂戴し、法華経の予証の通りに、振る舞われたのでございます。
  したがって、私たちも、大聖人様の弟子信徒として、その驥尾に付し、その実践行として折伏弘通に挺身させていただくわけであります。これこそが、如来の使いであり、釈尊の使いであり、御本仏大聖人様の使いであるということに通ずるのであります。どうか、そういう気概を持って精進していくことが、私たちの使命であると確信していただきたいと思います。
  日蓮正宗の信徒の一人ひとりが、大聖人様の御教導に従って、猊下の御指南のもとに、一致団結し、妙法広布のために精進していく人として、如来の使いとして、この世に生まれて来ているのだということを、この御文を通じて拝し奉っていただきたいと思います。
  どんな人でも、老若男女を問わず、全部、仏の使いであります。そういう大事な使命を持って、私たちはここに集っているのだということを心に銘記していただきたいと思います。
  大聖人様が、釈尊滅後二千年を経た末法に、この日本国に御出現になったということも、御本仏としての自らの尊い使命を持ってお出ましになっていらっしゃるのであります。その大聖人様に追随申し上げて、末法の今日において、「能く窃かに一人の為にも」、すなわち、たとえ一人の人に対してでも、窃かに語りかけていくということは、それは全部、御本仏の御照覧のもとになされていることである、仏様のお使いとして実践していることである、ということを知っていただきたいと思います。どうか、その志を絶対に失わないで、生涯を生き抜いていただきたいと思います。そして私たちに与えられた使命を立派に成し遂げていく人になっていただきたいのであります。妙法広布に生涯を貫く人には、それだけの大功徳が、私たちの一人ひとりの身の上に賜ることができるということを確信していただきたいと思います。
  反対に、大聖人様を誹謗する者は、仏を誹謗する者である。仏を誹謗する者は、地獄に堕ちる罪業を受けなければなりません。そのことを大聖人様は、御本尊様の相貌のなかに、はっきりと、
  「若悩乱者頭破七分(若し悩乱する者は頭七分に破る)、有供養者福過十号(供養有る者は福十号に過ぐ)」(陀羅尼品取意、文句記巻第四下)
と認められています。御本仏の大慈悲と同時に、謗法の罪業についての御指南がきちっと示されているのであります。どうか御本尊様の相貌をしっかりと御覧になってください。
  今日の世相は、まさに『立正安国論』にお示しの姿が、現実に現れております。今こそ大聖人様の大慈大悲のもとに賜った御本尊様を信仰し、自分一人のみならず、一家一族、さらに全世界の民衆を救済して、本当に娑婆世界を常寂光土と化していかなければなりません。お互いに、しっかりと猊下の御意のもとに精進してまいりたいと決意するものであります。
  4月1日から新年度が始まりましたが、また心新たに、先ずは6月15日の東日本決起大会を目指して、お互いの信心の活性化のために啓蒙し、また折伏に精進していただきたいと念願して止みません。
  人生の春に譬えられる時期に、青春という言葉がありますが、その青春時代は、決して限られた年代ではなくて、気概の問題だと思うのであります。一般には若い時代、35歳ぐらいまでの年代をいうと思います。 その次の段階は朱夏と申します。その次は白秋といいます。北原白秋という有名な詩人がおりました。人生の最後の時期は玄冬といいます。玄は黒色のことです。この四季のなかで一番大事な時期は、やはり青春であります。
  アメリカの実業家で詩人のサムエル・ウルマンという人が作った「青春」という有名な詩がありますが、この詩は、アメリカの雑誌リーダース・ダイジェストに掲載され、連合国総司令官のダグラス・マッカーサー元帥が座右の銘として執務室に掲げたということで、関西の財界人の松下幸之助氏も座右の銘としていたと言われております。その詩を読んでみますと、
  「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
  優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
  年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。
 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
  苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
  年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
  曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、
  人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、
  希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。
  大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
  これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる」。
(青春 "YOUTH" サムエル・ウルマン作 岡田義夫訳)
  私たちも青春の気概を持つことが折伏弘通に通じます。青春時代の気持ちを常に生涯持ち続けることこそ大切だと思います。壮年部も婦人部も青年部も全部、青春時代の喜びと勇気と活力の具わる大聖人様の妙法に巡り会ったのですから、いよいよ広布への気概を燃えたぎらせて、闘ってまいろうではありませんか。よろしくお願いいたします。大変、御苦労様でした。 (平成20年4月1日 広布祈念唱題会において)

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