平成20年5月1日発行 高照山 第245号
一 谷 入 道 女 房 御 書 (四)
建治元年五月八日  五四歳

 世間の人々はいかに申すとも信ずることはあるべからず。かへりて死罪流罪となるべしとはかねて知りてありしかども、今の日本国は法華経をそむき、釈迦仏をすつるゆへに、後生に阿鼻大城に堕つることはさてをきぬ。今生に必ず大難に値ふべし。所謂他国よりせめきたりて、上一人より下万民に至るまで一同の歎きあるべし。譬へば千人の兄弟が一人の親を殺したらんに、此の罪を千に分けては受くべからず。一々に皆無間大城に堕ちて同じく一劫を経べし。此の国も又々是くの如し。娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子なり。譬へば成劫の始め一人の梵王下りて六道の衆生をば生みて候ひしぞかし。梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。父母を知るも師の恩なり。黒白を弁ふるも釈尊の恩なり。而るを天魔の身に入りて候善導・法然なんどが申すに付けて、国土に阿弥陀堂を造り、或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り、或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り、或は宅々人々ごとに阿弥陀仏を書き造り、或は人ごとに口々に或は高声に唱へ、或は一万遍或は六万遍なんど唱ふるに、少しも智慧ある者は、いよいよこれをすゝむ。譬へば火にかれたる草をくわへ、水に風を合はせたるに似たり。(御書827n)

(内海雄幸師の講義)
 早速、御文に入りますと、
  「世間の人々はいかに申すとも信ずることはあるべからず。かへりて死罪流罪となるべしとはかねて知りてありしかども、今の日本国は法華経をそむき、釈迦仏をすつるゆへに、後生に阿鼻大城に堕つることはさてをきぬ。今生に必ず大難に値ふべし」。世間の人は何といっても、この法華経を信じないばかりでなく、かえって日蓮を流罪、死罪にするだろうということは、かねて知っていたけれども、今の日本国は、法華経に背いて、釈尊を信じないから、謗法の罪によって後生は必ず無間地獄に堕ちる事は言うまでもなく、今生にも必ず大難に値うのである。
  大聖人様を迫害するということは、末法の御本仏を迫害することになります。ところが当時の日本国の人びとは、大聖人様が御本仏であることを知りません。しかし、法華経の教えに背き、御本仏を迫害するという謗法の罪を犯せば、命が終わって、後の世には無間地獄に堕ちることになるのです。それどころか、今、生きているうち、今の人生において、必ず大きな難に遭うということであります。
  「所謂他国よりせめきたりて、上一人より下万民に至るまで一同の歎きあるべし。譬へば千人の兄弟が一人の親を殺したらんに、此の罪を千に分けては受くべからず。一々に皆無間大城に堕ちて同じく一劫を経べし。此の国も又々是くの如し」。それというのは他国から攻めて来て、上一人から下万民までが、皆一同に嘆く事があるであろう。譬えると、千人の兄弟が一人の親を殺した時、この殺父の罪を千に分けて受けるのではなく、皆一々に無間地獄に堕ちて、どれも一様に一劫の長い間を苦しみの中に経なければならない。この国もまたこのように、一々の人が各々その罪を被るのである。
これは『薬師経』に説かれている「他国侵逼の難」(御書236n)ということでございます。すなわち、正しい教えが人びとの心に根付かないで、間違った教えが広まっていくことによって、七つの大きな難が現れるであろうということが説かれています。『金光明経』『大集経』『仁王経』等々にも同様なことが説かれております。仏様の教えには功徳とか利益とか、そういうことだけが述べられているのではなくて、その反面、不信・誹謗すれば大きな罪を被るということも説かれています。
そのように、日本国の国民みんなが、他国から侵略されて嘆くという事態を招くのは、たとえば、一人の親のもとに千人の子がいたとして、一人の親を殺せば、その千人の子たちは、皆すべて、無間地獄に堕ち、一劫の間、苦しまなければならない。同様に今、鎌倉の北条幕府が大聖人様に迫害を加えていることも、それに連なる日本国の国民すべてが大難に遭うことになるのである。謗法与同の罪というものは、そういう恐ろしい境涯に巻き込まれてしまうのですよと、大聖人様は教えられています。
  「娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子なり。譬へば成劫の始め一人の梵王下りて六道の衆生をば生みて候ひしぞかし。梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。黒白を弁ふるも釈尊の恩なり」。この裟婆世界はその久遠の五百塵点劫から已来、教主釈尊の御所領である。大地、虚空、山、海、草、木に至るまで少しも他の仏の物ではない。また、その中の一切衆生は皆釈尊の御子である。譬えると、この世界の出来始めの時、天から一人の梵王が下って、六道の衆生を生んだのであるから、梵王は一切の衆生の親であるように、釈迦仏もまた一切衆生の親である。ただ我等衆生の親たるばかりではなく、一切衆生に善悪の分別、父母の恩等の道理を教えて下さる師匠である。
法華経の『譬喩品第三』には、
  「今此の三界は皆是れ我が有なり 其の中の衆生悉く是れ吾が子なり」(法華経168n)と説かれておりまして、この娑婆世界は教主釈尊の御所有であることが明らかにされています。
  また『如来寿量品第十六』には、
  「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那他劫なり。乃至 是より来、我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(法華経429〜430n)
と説かれておりまして、釈尊は五百塵点劫という算数譬喩も及ばない久遠の昔にすでに成仏し、それ以来、娑婆世界において説法教化して来られたことを明らかにされています。
  釈尊が説かれた沢山のお経には、阿弥陀如来とか、大日如来とか、薬師如来とか、善徳仏とか、いろんな仏様が出てきますが、みな他の世界や、架空の世界に存在する仏でありまして、この娑婆世界を所有される仏様ではありません。
  一つの世界が誕生してから破壊されて滅するまでの段階を、成劫(国土ができ、衆生が形成される期間)、住劫(国土が安定し、衆生が住む期間)、壊劫(世界全体が壊滅していく期間)、空劫(世界が消滅し空となる期間)の4つに分類して、四劫と申します。この成住壊空が繰り返されるのです。この四劫の期間の長さについては『阿毘達磨倶舎論』(巻第十二)に、
  「是の如く所説の成住壊空、各二十中(劫)、積もって八十(中劫)と成り、総じて此れ大劫の量となる」(大正蔵29ー63B)
と述べられています。
  その成劫の始めに、一人の大梵天王が娑婆世界に下りて六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の衆生を生んだことは、同じく『倶舎論』(巻第八)に、
  「劫初に起こるを以て彼の梵衆是くの如き想いを起こす。我等皆是れ大梵の所生なり。大梵、爾の時、亦此の想いを起こす。是の諸の梵衆皆我が所生なり。同じく一因を想う故に想一と名づく」(大正蔵29ー42C)
とあります。
  大梵天王が一切衆生の親であるように、先ほども申しましたように、釈尊が「其中衆生 悉是吾子(其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり)」と仰せられているのであります。
また、教主釈尊(ここでは末法の御本仏日蓮大聖人様)は、主師親の三徳を兼ね備えた仏様でり、御恩の深いお方であります。そうして、私たちが善悪の分別を弁えることができるのも、この御本仏様のお陰であります。したがって、私たちは、この主師親の三徳の御恩を良く知って、その恩に報いるということが大切であります。
  「而るを天魔の身に入りて候善導・法然なんどが申すに付けて、国土に阿弥陀堂を造り、或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り、或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り、或は宅々人々ごとに阿弥陀仏を書き造り、或は人ごとに口々に或は高声に唱へ、或は一万遍或は六万遍なんど唱ふるに、少しも智慧ある者は、いよいよこれをすゝむ。譬へば火にかれたる草をくわへ、水に風を合はせたるに似たり」。この主の恩、師の恩、親の恩の三恩ある大切な釈尊の御徳を忘れて、大の悪魔に魅入られた善導、法然等が言う事に従って、国に阿弥陀堂を造り、或は一郡、一村等に阿弥陀堂を造り、或は百姓万民の家ごとに阿弥陀堂を造り、或は家々、人々ごとに阿弥陀仏を絵に描いたり、木像に刻んだり、或は人ごとに口々に、高声に南無阿弥陀仏と唱え、一万遍とかまたは六万遍とか唱えているのに、その上少しでも智恵の有りそうな者が、この念仏称名を勧誘している有様である。これは恰も火の中へ枯れ草を投げ入れ、波を風に吹かせると、益々火は強く、波が高くなるばかりであるようなものである。
  ところが、天魔が身に入り込んでしまった善導とか法然などという念仏宗の祖師たちがおります。善導は中国唐の時代の祖師で、『往生礼讃偈』という書物を著しまして、そのなかに、
  「但だ專意をして(念仏を)作す者は、十即十生す。雜を修し至心ならざる者は、千中無一なり」(大正蔵47−439C、御書143n等参照)
と言って、南無阿弥陀仏と唱える以外の法華経などを雑行と称して、千人のうち一人も往生成仏はしない、
無駄なことだと言っているのであります。
また、日本浄土宗の開祖、法然は『選択本願念仏集』を著して、念仏の浄土門に対し、法華経等を聖道門と称して、「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」(大正蔵83ー4B・17A・19A・同)と書き、誹謗しているのであります。
  そういう念仏宗の祖師たちの言うことを信じて、国土や郡・郷・村等ごとに阿弥陀堂を建てたり、阿弥陀仏の絵像などを描いたりしたのです。また、人びとは口々に南無阿弥陀仏を声高に唱え、あるいは一万べん、あるいは六万べんも唱える者もあったのです。そうして、浄土宗や浄土真宗において、少しでも知恵のある者は、ますます、この念仏を勧めたのであります。
  それは譬えば、火が燃えているのに、さらに枯れた草を加えれば、ますます盛んに燃えてしまいます。また、水面に風が吹き荒れるならば、ますます波が大きくなってしまいます。
  したがって、念仏の間違った教義は、どこまでも破折し、大聖人様の教えに帰依して、「正しい法を立て国を安ずる」ということが大切であります。
皆様方には、明年の『立正安国論』正義顕揚750年を目指して、御報恩の誠を尽くし、お互いに生涯の善い思い出とするためにも、どうぞ誠心誠意、折伏行に精進していただきたいと存じます。
  最後に、来る6月15日、平成21年の御命題達成のために、さいたまスーパーアリーナにおける東日本決起大会(プレ大会)に、奮って参加されまするよう特に申し上げまして、本日の御書講といたします。
(平成20年4月13日 月例報恩御講において)

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