平成20年6月1日発行 高照山 第246号
一 谷 入 道 女 房 御 書 (五)
建治元年五月八日  五四歳

 此の国の人々は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし。而るに阿弥陀等の他仏を一仏もつくらず、かゝず、念仏も申さずある者は悪人なれども釈迦仏を捨て奉る色は未だ顕はれず。一向に阿弥陀仏を念ずる人々は既に釈迦仏を捨て奉る色顕然なり。彼の人々の墓無き念仏を申す者は悪人にてあるぞかし。父母にもあらず主君・師匠にてもおはせぬ仏をば、いとをしき妻の様にもてなし、現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て、乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず。是豈不孝の者にあらずや。此の不孝の人々、一人二人、百人千人ならず、一国二国ならず、上一人より下万民にいたるまで、日本国皆こぞて一人もなく三逆罪のものなり。されば日月色を変じて此をにらみ、大地もいかりてをどりあがり、大せいせい天にはびこり、大火国に充満すれども僻事ありともおもはず、我等は念仏にひまなし、其の上念仏堂を造り、阿弥陀仏を持ち奉るなんど自讃するなり。是は賢き様にて墓無し。譬へば若き夫妻等が夫は女を愛し、女は夫をいとおしむ程に、父母のゆくへをしらず。父母は衣薄けれども我はねや熱し。父母は食せざれども我は腹に飽きぬ。是は第一の不孝なれども彼等は失ともしらず。況んや母に背く妻、父にさかへる夫、逆重罪にあらずや。阿弥陀仏は十万億のあなたに有りて、此の娑婆世界には一分も縁なし。なにと云ふとも故もなきなり。馬に牛を合はせ、犬に猿をかたらひたるが如し。(御書828n)

(内海雄幸師の講義)
 前回と今回の御文において、大聖人様は末法における主師親の三徳にスポットを当ててお述べになっていらっしゃいます。末法の主師親の三徳がどなたにあるのかと申しますと、ある人は大日如来だと言い、ある人は阿弥陀如来だと言う。いろんなことを言うわけでありますけれども、大聖人様は、末法の主師親の三徳は、経文の文上では釈尊である。文底では、御自身、日蓮であるとおっしゃっておられるのであります。すなわち『開目抄』等の御書において、
  「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(御書577n)
と、はっきりとおっしゃっておりまして、日蓮大聖人様は末法における御本仏として、主師親の三徳を兼備しているということを宣言あそばされています。しかしながら、当時の大部分の人たちは、そのように感じていないわけでありまして、大聖人様はおろか、釈迦仏をも捨てて、阿弥陀仏を信仰していました。そのことが、どんなに道理に外れているかということを述べられたのが、本日拝読の御文であります。
  では、御文に入りますと、
「此の国の人々は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし。而るに阿弥陀等の他仏を一仏もつくらず、かゝず、念仏も申さずある者は悪人なれども釈迦仏を捨て奉る色は未だ顕はれず一向に阿弥陀仏を念ずる人々は既に釈迦仏を捨て奉る色顕然なり。彼の人々の墓無き念仏を申す者は悪人にてあるぞかし」。此の国の人々は一人残らず教主釈尊の御弟子である。それなのに阿弥陀仏等の他仏を一仏も造立せず、描かず、念仏も行じない者は悪人であっても釈迦仏を捨てた様子はまだ顕れない。ひたすらに阿弥陀仏を念ずる人々は既に釈迦仏を捨てた様子がはっきりしている。そうした人々の様に、はかない念仏を唱える者は悪人である。
前回述べましたように、釈尊は法華経の『譬喩品第三』において、
  「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり」(法華経168n)
と説いておりますから、日本国の人びとは皆、釈尊の弟子であり、子供であります。ところが、その親とも仰ぐべき釈尊を捨てて、縁のない他仏の阿弥陀仏を信仰しているのであります。そうして、阿弥陀仏を信仰しない者は悪人であると決めつけられているけれども、その阿弥陀仏を信仰しない人たちは、まだ積極的に釈迦仏を捨てているわけではありません。ところが、専ら阿弥陀仏を信仰する人びとは、はっきりと釈迦仏を捨てている。こういう念仏を専ら唱える者こそ、悪人というべきであると、このように大聖人様はおっしゃっているわけであります。
  「父母にもあらず主君・師匠にてもおはせぬ仏をば、いとをしき妻の様にもてなし、現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て、乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず。是豈不孝の者にあらずや。此の不孝の人々、一人二人、百人千人ならず、一国二国ならず、上一人より下万民にいたるまで、日本国皆こぞて一人もなく三逆罪のものなり」。父母でもなく、主君や師匠でもない仏を、愛しい妻の様にもてなし、実際に国主、父母、明師である釈迦仏を捨て、乳母のような法華経を口にも唱えない。どうして不孝の者でないと言えるだろうか。この不孝の人々は、一人や二人、百人や千人でもなく、一国や二国でもなく、上一人から下万人に至るまで、日本国の人々は皆こぞって一人残らず三逆罪の者である。
国主、父母、明師である釈尊を捨てて、他仏の阿弥陀仏を信仰する日本国の人びとは、相模の国の人も、武蔵の国の人も、佐渡の国の人も、皆、三逆罪を犯す者であると、大聖人様は仰せであります。三逆罪というのは、通常は、これを犯せば地獄に堕ちるとされている五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血)のうちの、殺阿羅漢(聖者を殺す)・破和合僧(和合僧団を破る)・出仏身血(仏の身から血を出す)の三つを「三逆罪」と称しますが、ここでは、主師親の三徳に背くことをもって、三逆罪と仰せられたのではないかと拝されます。
  「されば日月色を変じて此をにらみ、大地もいかりてをどりあがり、大せいせい天にはびこり、大火国に充満すれども僻事ありともおもはず、我等は念仏にひまなし、其の上念仏堂を造り、阿弥陀仏を持ち奉るなんど自讃するなり。是は賢き様にて墓無し」。それ故日月は顔色を変えてこれを睨み、大地も瞋って振動し、大彗星は天にはびこり、大火は国に充満すれども、誤りがあるとも思わず、我々は念仏に余念がなく、その上念仏堂を造り、阿弥陀仏を持っているなどと自賛しているのである。是は賢いようであるけれども、はかないものだ。
  「日月色を変じて」というのは、『薬師経』に説かれている「日月薄蝕の難」や、『仁王経』に説かれている「日月失度の難」等を指します。実際に文永11年に佐渡において「二つの日出現」(御書737n)等の異変が観られております。また「大地もいかりて」等とは大地震で、正嘉元年8月23日に、鎌倉の神社仏閣一宇として全き無き大地震が起きております(御書419n、吾妻鏡第四十七)。また「大せいせい」とは、文永元年7月に余光大体一国に及ぶ大彗星が現れています(御書369n)。また「大火」等とは、弘長3年には鎌倉の名越や小町等が焼け(吾妻鏡第五十一)、弘安3年には鎌倉の八幡宮や筑前筥崎宮が焼失しました(御書1524n、皇年代略記巻三十二)。
「譬へば若き夫妻等が夫は女を愛し、女は夫をいとおしむ程に、父母のゆくへをしらず。父母は衣薄けれども我はねや熱し。父母は食せざれども我は腹に飽きぬ。是は第一の不孝なれども彼等は失ともしらず。況んや母に背く妻、父にさかへる夫、逆重罪にあらずや」。
  譬えていうならば、若い夫婦等が夫は妻を愛し、妻は夫を愛おしむ程に、父母の将来に関心を払わない。父母の衣は薄いけれども、私の寝室は暖かい。父母は食べ物がないけれども、自分達は満腹になってしまった。これは第一の不孝であるけれども、彼等は間違いであるとも思わない。ましてや母に背く妻、父に逆らう夫は、逆重罪でないと言えるだろうか。
私たちが住んでいるところは娑婆世界であり、その娑婆世界の仏様である釈尊を敬わずに、他土の阿弥陀仏を信仰するということは、ちょうど、自分たちを生み育ててくれた父母の恩を忘れてしまった親不孝者のようなものだというわけであります。このことに気づかずに、父母に対して背いている者は、まさに逆重罪を犯している者に相当すると、大聖人様は念仏を唱える者を叱責し、覚醒を促されておられるのであります。
「阿弥陀仏は十万億のあなたに有りて、此の娑婆世界には一分も縁なし。なにと云ふとも故もなきなり。馬に牛を合はせ、犬に猿をかたらひたるが如し」。阿弥陀仏は十万億の彼方にいて、この裟婆世界には少しも縁がない。何と言おうとも理由がないのである。馬に牛を合わせ、犬に猿を語るようなものである。
『阿弥陀経』には、
  「是より西方十万億仏土を過ぎ、世界有り、名づけ て極楽と曰ふ。其の土に仏有り、阿弥陀と号す」(大正蔵12−346C)
とありますが、この『阿弥陀経』は釈尊が法華経を説く以前、「四十余年未顕真実」の方便教であります。しかも西方十万億仏土の極楽世界も、阿弥陀仏も、現実には存在しません。その阿弥陀仏を頼りにするということは、あたかも全く種類の違う馬と牛とを同類に扱おうとする無理なことであり、また、犬猿の仲といわれるような仲の悪い相手に向かって、話をして仲間に誘い入れようとするような無謀なことであります。
  私たちが、架空の仏を信じたり、自己の信念だけで十分と思い、主師親の三徳を無視しては、人としての成長も、幸福も、成仏の境涯も絶対に築き上げることはできません。皆様方には、末法の主師親兼備の日蓮大聖人様の御本尊様を信じ持ち、本年のプレ大会にも参加し、折伏を行じて、さらに大きな功徳を得ていただきたいということを申し上げまして、今回の講義に代えさせていただきます。本日の御参詣まことに御苦労様でございました。
(平成20年5月11日 月例報恩御講において)

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