平成20年7月1日発行 高照山 第247号
祈 祷 抄
文永9年 51歳

 「行者は必ず不実なりとも智恵はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳は備えずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給ふべし。袋きたなしとて金を捨つる事なかれ、伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取るべからず。行者を嫌ひ給はば誓ひを破り給ひなん」(御書630n)

(通釈)
 行者は不誠実であっても、智恵は愚かであっても、その身は不浄であっても、戒徳は備えていなくとも、南無妙法蓮華経と唱え申し上げるならば、諸天は必ず守護して下さるだろう。袋が汚いと言って、その中にある金まで一緒に捨ててはいけない。悪臭を発する伊蘭を嫌うならば香気のある栴檀を手に入れる事はできない。谷の池を不浄であると嫌うならば、その中に咲く蓮を取る事はできない。法華経の行者をお嫌いになるのでしたら、誓いを破る事になるでしょう。

(解説)
 日蓮大聖人が一閻浮提第一の法華経の行者として、三類の強敵と戦い、諸難をしのいでおられる尊い御姿を誤解して、日蓮大聖人に怨嫉する僧俗があり、大聖人様に対して、もう少し柔らかに教化すべきであるとか、逆に大聖人様に忠告する人もいたと仰せられている。また、大聖人様の佐渡御流罪を見て、鎌倉在住の信徒の大半が退転したとも言われている。大聖人様の御振舞を正しく受け止める事ができず、怨嫉批判し、落ちていく人、退転する人も、事実あったのである。外見だけに執われる事、並びに怨嫉する事の恐ろしさを知らなければならない。

(住職法話)
 申すまでもなく、私たちが信仰をする際に大事なことは、その教えにはどういうことが説かれているのか、仏の振る舞いとはどういうことか、その教えの対象となっている人はだれか、道理のうえから見て完全に整っているかどうか、ということが極めて大切なことであります。この教行人理ということから言って、すべてにおいて最も正しいことが証明されて、はじめて信仰する価値のある宗教と申すことができるわけであります。
  釈尊は、五十年にわたる説法のうち、前の四十余年間は、衆生の機根を調えるために方便の教えを説き、後の八年間において、真実の法華経をお説きになりました。
  そのことを法華経を説く直前の『無量義経』に、
  「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経23n)
と明かされ、法華経の『方便品』には、
  「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」(法華経124n)
と仰せられています。
  また『無量義経』には、
  「無量義は一法より生ず」(法華経19n)
と説かれています。
  さらに『方便品』には、
  「諸仏は(衆生をして仏知見の道に開示悟入せしめる)一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもう」(法華経102n)
  「諸仏如来は但菩薩を教化したもう。如来は一仏乗を以ての故に衆生の為に法を説きたもう」(法華経103n)
等と説かれていまして、教行人理の四つは、諸仏の本懐とする法華経に、帰一し、統合されることが示されています。これを「開会の法門」と申しまして、教行人理の四つが、最尊の妙法蓮華経に統一されるところから「四一開会」と申すのであります。
  その第一には「教一」と申しまして、説かれている教法が最高最善であるところの、最勝の信仰に帰さなければならないということであります。
  日蓮大聖人様は『観心本尊抄』において、
  「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書661n)
と仰せられ、私たちが信仰する御本尊は、世界第一の最も勝れた御本尊様であることをお示しであります。
  次に「行一」と申しまして、仏様のお振る舞いは、ただ一つ、一切衆生をして、成仏の境界に入らしめるためであります。
  したがって、法華経の『寿量品』にも、
  「毎に自ら是の念を作さく、何を以てか衆生をして、無上道に入り、速かに仏身を成就することを得せしめんと」(法華経443n)
と説かれています。
  大聖人様は『諌暁八幡抄』に、
  「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月廿八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(御書1539n)
と仰せであります。大聖人様は、ただ末法万年の衆生に対し、南無妙法蓮華経の大仏法をもって救済されるために、その大慈悲のお振る舞いを行ぜられて、御一生を貫き通されたわけでございます。
  そうして、大聖人様は仏様の御境界において、一切衆生を救済するために、御本尊様を建立なされまして、
  「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(御書729n)
  「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(御書748n)
とおっしゃっているわけでございます。
  また「人一」と申しまして、先にも挙げましたように、『方便品』に「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」とございまして、あらゆる仏様は、一切衆生の機根を調えらた後に、真実の法華経をお説きになるのであります。もはやそこには、二乗(声聞・縁覚)や三乗(声聞・縁覚・菩薩)の差別はなく、ただ皆等しく、菩薩として教導されるということであります。
  また、法華経の『譬喩品第三』には、
  「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生、悉く是れ吾が子なり」(法華経168ページ)
と説かれて、仏様と衆生は父子の関係にあることを明かされております。
  大聖人様は『開目抄』に、
  「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(御書577ページ)
と仰せられ、また『諌暁八幡抄』には、
  「一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なり」(御書1541ページ)
とおっしゃられて、一切衆生を自分の子供として救ってあげましょう。どんな苦しみも、みんな日蓮自身の苦しみとして受け止めてあげましょう。こういう大きな御慈悲をお示しくださっているのであります。このような一視同仁のお振る舞いが、人一として、一切衆生をして悉く平等に、成仏の境界に入らせてくださるのであります。
  さらに「理一」と申しまして、一切衆生を救うと言っても、その原理、道理、働きとしての十界互具、一念三千の法義が、きちっと具わった御本尊様でなければならないのであります。この最も勝れた法理が具わった御本尊様は、大聖人様が顕された御本尊様以外にはないのであります。したがって、本当の功徳を成就することができるのは、大聖人様の妙法の御本尊様を離れては絶対にない、という確信を持っていただきたいと思います。
  大聖人様の仏法は、教行人理において第一である。最高である。真実である、ということが証明されているのであります。大聖人様が建立あそばされた一閻浮提第一の本門戒壇の大御本尊様を根本に、世界の広宣流布がいよいよ進展していく。そういう時代が到来したということを確信していだきたいと思います。
  また、どんな障害があろうとも、本宗として初めての関西・九州・北海道に次いで、東日本のプレ大会を勝利して、明年の『立正安国論』正義顕揚750年の本番を迎え、さらに、しっかりとスクラムを組んで、堂々と前進をしていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただきます。(平成20年6月1日 広布唱題会において)

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