平成20年7月1日発行 高照山 第247号

妙光寺所蔵古文書『臨時興記』より

 日英上人御筆『臨時興記』(妙光寺古文書補遺168)の一節
妙光寺の御宝蔵に納められている古文書のなかに、日英上人御筆のお説法の稿本で、表紙に『文政十三庚寅閏三月カ 臨時興記』と書かれた御本がある。日英上人は、当時は文政11年(1828)以来、江戸中の郷(吾妻橋)妙縁寺の御住職を勤められ、9年後の天保7年6月に、第51世の御法主として大石寺大坊に入られた。
  『臨時興記』に記されている概略は、総本山第49世日荘上人が、恒例により文政13年正月6日、江戸城にて将軍徳川家斉の拝賀の列に参加するため、前年の冬(文政12年12月)に富士大石寺を出立され、江戸下谷の常在寺に逗留された。それ以来、体調を崩されて、文政13年=天保元年(1830)の春も、漸く2月16日の御誕生会の御説法を押してお勤めになられたけれども、その後は(江戸三ヵ寺の)春季彼岸会中も寺職の者たちだけで勤めた。それ以来は寿量文底の御法門を聴聞したいと悦ばしくお待ちしていたが、数度のお講日にもお勤めあそばすことはなく、残念至極であった。もはや、そのうちに御全快になるならば、是非とも御帰山あそばされねばならぬ。なぜならば、明年の天保2年には、宗祖大聖人の第550御遠忌を奉修するために、諸堂を修復中であって、万端、お忙しい御用が立て混んでいる。御法主がお留守で御指図を頂けないので奉行の人びとも困惑しているが、すでに今は二天門の修復も済み、三門の修復に取りかかる由で、それに付いては、日荘上人の御様子伺い旁々、お問い合わせをし、また学頭師(日誠上人)に御登山なされるようお達し等、諸用を兼ねて、役僧のうち塔中の二人が至急の使いとして、3月4日に下谷(常在寺)へ到着した。日荘上人におかれても、このごろは日増しに快方に赴かれて、今一段御快方になれば遠からず御帰山もあそばすことであろうか。もちろん、そのうちにお暇乞いの御説法もお勤めあそばされ、その節には諸堂修復の御披露もあるであろう。
  三門は御堂に続いての大きな建物であるから、定めて多分の修復費が御入用であろう。昨年の3月21日に、北風烈しく、神田佐久間町から出火し、東は両国橋際から永代橋手前まで、南北およそ1里、東西20余町を焼失し、焼死溺死千九百余人という大火事があった(武江年表)。その直後の大変な時であり、旁々御苦労なことではあろうが、御供養の記帳に講中の衆が精を出してくださるよう偏に頼み入ることである。
  さてまた、本山の学寮(蓮蔵坊)のことであるが、当御前様の日荘上人が文政3年(1820)8月に猊座に登られて、学頭寮を御退寮の後は、久しい間、無住になって、殊の外、零落してしまった。しかし、ほかの塔中と違い、学寮には檀家が一軒もなく、建物が大破していて、無住中は少々の修復は加えたが、手広の坊であるから、すべて手の届く所までは参らぬ。
  もっとも小梅(向島)常泉寺の御住職、本勝院師(後の第50世日誠上人)は、5年以前の文政9年の戌年に常泉寺の後継住職として赴任するに当たり、御登山の砌、学頭として請待の御内意も数度あったが、たって御辞退されたゆえに、その時はただ学頭職に仰せ付けられて、まだ学頭蓮蔵坊の住職ではなかった。しかし、御遠忌にも差し掛かり、学寮が無住では諸事御法会の差し支えにもなるから、是非とも当春のうち(文政13年3月まで)に登山されて請待を受けられるよう御前様、御隠居師(日量上人)の御内意があり、懇命黙しがたく、学寮に入られることになったが、学寮の建物の修復もせねばならず、日荘上人も同年5月8日御遷化になり、段々延引して、結局、日誠上人は同年の6月18日に学寮に入院なされた。さらに、同年6月24日、御隠尊日量上人が御再住なされた。
今からおよそ180年前の江戸の法華講衆も、宗祖御遠忌を翌年に控え、前年の大火で常泉寺・常在寺・妙縁寺の檀家も類焼し、行方の知れぬ者もあったという困難な状況にあって、御本山の二天門・三門・蓮蔵坊等の諸堂修復のために、真心の御供養を捧げ、御奉公に勤めていたことが伺い知られる。(編集室 記)

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