平成20年8月1日発行 高照山 第248号

池上宗仲について

 池上宗仲の没年については、
  「弘安六年癸未歳(1283)九月十三日歿す、行年七十有一」(本化聖典大辞林上ー146)という説がある。
  また、池上本門寺の日蓮聖人御影像の「胎内御遺骨唐金筒銘」の裏には、
  「弘安五年壬午十月十三日辰刻御遷化 大別当 大国阿闍梨 日朗 大施主 散位大中臣 宗仲 大施主 清原氏女」(昭和定本日蓮聖人遺文第三巻巻頭)
とあり、また「像底銘」には、
  「啓白 大願主二人 侍従公日浄 花押 蓮華阿闍梨日持 花押 正応元年六月八日」(同 上)
とある。
  日蓮大聖人御入滅の直後、弘安5年中に池上本門寺の大別当として大国阿闍梨日朗が在職していたとは考えられないから、上記の「胎内御遺骨唐金筒」は、後年に制作され、日蓮聖人御影像の胎内に納められたものであろう。
  この日蓮聖人御影像は、「像底銘」に記されているように「正応元年(1288)六月八日」に池上本門寺の創建と共に造立されたものであろう。
  そう考えれば、広大な自邸を池上本門寺の寺域として提供した大施主の宗仲は、正応元年には、まだ生存していたとも考えられる。『富士年表』では、
  「永仁元年(1293)○九月十三日寿を以て終焉」(別頭統紀巻二十四)
という説の方を採用している。
  また『八幡宮造営事』という御書によると、
  「御造営の大ばんしゃうをはづされたるにやあるらむ。神宮寺の事のはづるゝも天の御計らひか」(御書1557n)
とあり、弘安4年(1281)に行われた鶴ヶ岡八幡宮およびその境内の神宮寺の造営に当たって、池上宗仲が、その作事の大番匠を外されたということが記されている。この造営は同年の2月7日に八幡宮の正殿の工事から本格的に始まり、社家大工の左衛門大夫国末という人が担当したということである(弘安四年鶴岡八幡宮遷宮記)。
  また『八幡宮造営事』には、
  「返す返す穏便にして、あだみうらむる気色なくて、身をやつし、下人をもぐせず、よき馬にものらず、のこぎり・かなづち手にもちこしにつけて、つねにえめるすがたにておわすべし」(御書1558n)
とあるから、池上宗仲兄弟は、武士というよりは、先代から大勢の建築職人を統率し、工匠の長として幕府に仕えていた大工であったと思われる。
  『別頭統紀』(巻二十四)に、
  「姓は藤原氏、世に魯般の術を伝え、鎌倉大元帥に事う、武州荏原郡千束の郷に食み、天下の匠工池上に従事せざること無し」
と記しているのは当を得ている。「魯般」というのは中国、春秋時代の魯の工匠で、工匠の神とされている。
  また、宗仲は父の跡を継いで、武蔵国千束郷池上の地頭を勤めた(御書1863n)。また、右衛門大夫という官職を称していたようである(御書997、1864n等)。ただし、その前後に「大夫志」という大夫を佐ける役の名で呼ばれている場合もある(御書987、1581n等)。
  当時、京都の大工のなかには従五位下という官位に叙せられていた藤原国成という人もいた(東宝記巻二)。池上宗仲は「散位」ということで、叙位はされていても、実際の官職には就かず、「大中臣」という藤原鎌足の末裔の姓を名乗っており、「右衛門大夫」という名目だけの職名を称していたようである。
宗仲の父は、「左衛門の大夫」と称された人である(御書1183,1270n)。
  『吾妻鏡』(第卅一)に、暦仁元年(1238)6月5日、将軍家が春日社に参った時の随兵のうちに「池上藤兵衛康光」の名が見えるところから、この人を宗仲の父に擬している説もあるが、左衛門の大夫は工匠であり、武士ではないから、恐らくは誤った説であろう。
  『兵衛志殿御書』には、
  「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二つのわの車をたすけ二つの足の人をになへるが如く二つの羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ひぬる御計らひ、偏に貴辺の御身にあり」(御書1270n)
と仰せられているから、左衛門の大夫は、極楽寺良観等の唆しに従って、宗仲兄弟の信心を妨害していたが、この御書を賜った弘安元年ごろには、大聖人様の御指導のもと、宗仲兄弟が一致協力して父を説得した結果、大聖人様の教えを信仰するようになった模様である。
  池上本門寺には「良賢授与之 弘安五年太歳壬午二月日」という脇書のある大漫荼羅(立正安国会の御本尊集にはない)が所蔵され、右衛門大夫志宗仲に授与されたものとされている(大田区の古文書中世篇11)。また、宗仲の法号を「朗賢院日宗(高祖年譜一〇は崇に作る)居士」と伝えているが、鎌倉時代のものではなく、後世の追号であろう。(編集室 記)

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