平成20年9月1日発行 高照山 第249号
妙光寺執事 内海雄幸

日蓮と同じく法華経を弘むべし

 皆様お早うございます。全国一斉の広布唱題会に当たりまして、ただ今は皆様方と共に読経唱題を申し上げ、謹んで妙光寺支部、正道講支部のそれぞれの折伏誓願目標の達成を御祈念申し上げた次第でございます。
  この広布唱題会については、皆様方お一人も残らず認識されているとは思いますけれども、総本山をはじめ全国の日蓮正宗のお寺というお寺では、この第1日曜日の午前9時から、必ず猊下様をはじめ、それぞれの住職様をお導師として、1時間の唱題をするわけでございます。
  考えてみますと、こういうことをしている宗派は他にはありません。日蓮正宗の御信徒が、それぞれのお寺に集い、その数は恐らく何万人ということになるかと思います。それぞれ場所は違うけれども、同じことを同じ時間帯に御祈念をするということだけでも、すごいことであります。そうして、何を御祈念するかというと、折伏の成就を御祈念するわけであります。
  仏法におきましては、正しい教えで他の人を救うということを最上の修行方法とするわけであります。その誓願を立てて御祈念をするという、そういう尊い行いを、今皆様方は、この1時間の間に行ったわけであります。これは大変、有り難いことなんだということを、どうか記憶に留めて置いていただきいと思うものでございます。
  さて、本日は日蓮大聖人様が『新池御書』においておっしゃっている、
  「うれしきかな末法流布に生まれあへる我等、かなしきかな今度此の経を信ぜざる人々」(御書1456n)という御文について、少々申し上げたいと思うものでございます。
  この御文は、末法に生まれ合わせたことの喜ばしさと、それから法華経を信じる人は多いけれども、これを正しい筋道のもとに信じる人は非常に少ないということ、そうして、この法華経を修行し、信仰をするならば、過去の無量の謗法の罪というものも、たちまちに消え去るのだということを仰せられているのが、この御文でございます。
  末法に生まれて、本門の下種仏法に会うことができた我々は、実に喜ばしいではないか。逆に同じ末法に生まれ合わせながら、いまだに下種仏法を信じられない人が多いのは、全く悲しい限りであるということでございます。
この末法という時代は、五濁悪世、闘諍言訟・白法隠没と申しまして、あらゆる衆生の命が濁って、それによって互いに争が起こり、それが止むことのない世の中でございます。
  しかし、この悪世末法にこそ、御本仏たる宗祖日蓮大聖人様が御出現なされ、真実の大仏法をお説きあそばされるわけであります。
  我々は、このように濁った時代の衆生でありますから、正法に対する反発や弾圧も酷い時代に生まれ合わせているわけでありますが、有り難いことにその正法を信仰することができたのであります。ところが、折角、この根本の大仏法が出現する時代の末法に、人として生まれ合わせたにも拘わらず、正法を信ずることができない人たちのことを、大聖人様は、大変、悲しんでおられるわけであります。
  そもそも人間として生を受けた者は、死を免れることはできません。生老病死、この四つの苦しみは、だれでも体験することであり、それから逃れることはできません。そうであるならば、本未有善の我々衆生は、どうしても、現世および来世にわたる安穏を図って、成仏の境涯を得るために、何としても努めなければならない。そういうことでもあるわけであります。
  法華経の『薬草喩品第五』には、
  「現世安穏 後生善処」(法華経217n)というお経文があります。この法華経を聴聞し、信受すれば、現世は安穏にして、後世は善処に生まれるということが説かれているのであります。
  また、大聖人様は『富木殿御書』に、
  「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」(御書1169n)ともおっしゃっておられます。
  現当二世にわたる絶対的な幸福を得るための修行を、私たちは今しなければ、後々の世までも悔いを残すことになります。
  しかし、実際によくよく世間の様子を見てみますと、人は皆、法華経というお経は尊い教えであるということは知っておりますし、なかには口では法華経を信じていると言っている人もいます。そのように、たとえ手には法華経を持っていたとしても、法華経の心に背いた考えを持ち、また行動をしていては、文字通り、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちてしまうわけであり、そういう人が多いのです。
  仏教というものは、西暦の6世紀に日本に伝来いたしましたが、飛鳥時代の聖徳太子は「十七条憲法」を制定して、そのなかで特に「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏法僧なり」と明記いたしました。そうして、法華経の要義を解釈した『法華義疏』という書物を著しました。また平安時代の前期、伝教大師がおられた時代も、法華経の研究が非常に盛んな時代でありました。また平安時代の後期に至りまして、当時の権力者平清盛をはじめ平家の人たちは、法華経を金銀や絵の具で飾った絢爛豪華な料紙に書写をいたしまして、安芸の厳島神社に納め、平家一門の安穏を祈るということもやっております。これがいわゆる「平家納経」であり、国宝に指定されています。
  そのように法華経が尊いお経であることは判っているのですが、法華経の真の意義、すなわち「正直捨方便(正直に方便を捨てる)」(法華経124n)ということ、それから「不受余経一偈(余経の一偈をも受けざれ)」(同183n)というのが法華経の教えであることを心の底から信じて、実践している人は本当に少ないわけであります。
  そういった法華経の教えに背いて、ほかの教典と法華経の教えを一緒に信心修行するということは、あたかも人間の内臓のうち、肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓等のいずれか一つでも調子が悪くなれば、ほかの臓器にも必ず疾患が現れる。そうして遂には命にまで関わる大病になってしまう。それとよく似ております。余経を信じる謗法の害毒は、それほど恐ろしいのです。
  特に正法時代・像法時代におきましても、また末法において、現在におきましても、このように誤った形で法華経の信仰をする人がいるわけであります。
  像法時代に出現された我が国の天台宗の開祖、伝教大師最澄という方は、
  「法華経を賛むと雖も、還って法華の心を死す」(法華秀句下、仏説諸経校量勝、御書1652n等)と言われておりまして、中国の法相宗の慈恩大師(玄奘三蔵の弟子、窺基)や三論宗の嘉祥大師吉蔵という学者たちが、法華経を講義し、研究したとしても、それは仏様の心に背いたものであるということを述べて、破折しております。つまり、彼等は、法華経を根本としたのではなく、自分が研究する法相教学や三論教学を証明するうえで、法華経を支持し、賛嘆したわけであります。そういうような信仰の在り方というものは、却って法華経の心、仏様の意志を蔑ろにし、また、その教えを死なせてしまうのである、ということを断言されておられます。
  現在でも、この法華経を信仰する宗旨、宗派というものは実にたくさんあります。先ず旧来の仏教団体では日蓮宗関係の各派があります。それから新興宗教では霊友会・立正佼成会・創価学会など、数え切れないほどの団体があります。しかし、法華経の真意、日蓮大聖人様のお心のままに信仰しているのは、独り我が日蓮正宗のみであります。
  法華経の真意に基づいて、大聖人様の教えを信仰するならば、たとえ末法に充満する世間の悪業の罪を須弥山の山の高さに積み重ねても、その罪は、あたかも春先の霜や雨の後の露のように、法華経の日輪、妙法の光に照らされて、たちまちに消えるのであります。末法に生まれ合わせたということ、そうして本未有善の衆生として誕生したということは、私たちは非常に悪業の深い衆生ではあります。しかし、だからこそ大聖人様の真実の仏法に巡り会うことができたのであります。
今、「妙法の光」ということを申し上げましたが、「高照山妙光寺」という、この山号寺号は「高く妙の光を照らす寺」という意味であります。
  大聖人様は『撰時抄』に、
  「仏日を用て国をてらせ」(御書836n)と御指南されておられます。「仏日」とは、仏様の教えを太陽に譬えておられるのであります。
  また『寂日房御書』には、
  「経に云はく『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す』と。此の文の心よくよく案じさせ給へ。『斯人行世間』の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。日蓮 等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり。(中略) かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」(御書1393n)ということを仰せになっておられます。大聖人様の三大秘法を持ち、信仰する私ども妙光寺に縁する人間衆生は、唱題を欠かさずに信行し、妙法の光をこの国土に照らしていって、謗法に迷える一切の人びとを救わなくてはなりません。高照山妙光寺の僧俗であるということは、その身そのまま、折伏を行ずる人たちでなければいけないわけでございます。それなくして、妙光寺の信徒だということを高らかに言ってはいけないということでもあるわけであります。
  明年の『立正安国論』正義顕揚七百五十年の大盛儀を迎えるに当たって、この深い因縁というものをお考えいただき、その意義のままに、自行化他に邁進をしていただきたいということを申し上げまして、一言、御挨拶に代えさせていただく次第でございます。本日の御参詣、まことに御苦労様でございました。
(平成20年8月3日 広布唱題会において)

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