平成20年10月1日発行 高照山 第250号
妙光寺住職 尾林 日至

竜口御難会の意義

  「少々の難はかずしらず、大事の難四度なり」(御書539n)
といわれる程、釈尊・龍樹・天台・伝教等も肩を並べる事のできない大難の御一生でありました。

  四箇度の大難とは、
      (一)文応元年(一二六〇)八月二十七日の鎌倉松葉ケ谷の夜襲
      (二)弘長元年(一二六一)五月十二日伊豆の伊東への御配流
      (三)文永元年(一二六四)十一月十一日安房東条小松原での要撃
  そして第四の難がいわゆる文永八年(一二七一)九月十二日の竜の口の頚の座と、それに続く佐渡の御配流であります。
  わけても竜の口の法難は、『四条金吾殿御消息』に、
  「裟婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(御書478n)
と、『開目抄』には、
  「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば」(御書563n)
とも御教示の如く、大聖人は文永八年九月十二日丑寅の時、つまり三世の諸仏の成道の刻、陰陽生死の中間に頚の座にあわれましたが、
  「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。(中略)太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、けうさめて一町計りはせのき」(種々御振舞御書 御書1060n)
と、遂に頚を切る事は出来ず、しかも大聖人の御身の上には重大な転機があったのであります。
  それはまさに子丑の刻の大聖人の名字凡身の死から、寅の刻にかけて、大聖人の御身、その魂魄は愈々久遠元初の自受用身へと、降魔を凌いで内証真身の成道を示されたのであります。
  すなわち示同凡夫の当体を改めずして、肉身のまま久遠即末法の御本仏へと発迹の顕本を遊ばされたのであります。
  此処にとりわけ九月十二日の竜の口の御難会法要を奉修し、御本仏大聖人の大慈大悲に対し奉り、仏恩報謝の誠をささげると共に、その未曽有の大難の御苦労を偲び奉り、私共も其の弟子檀那として、いかなる三類の強敵、三障四魔紛然として競い起ころうとも、不自惜身命の信心を貫き、正法広布の赤誠をお誓い申し上げるのであります。 それでは一体大聖人は何故に、こうした数々の大難をお受けになったのでしょうか。
  それは既に周知の如く、法難の直接的な原因は、大聖人の幕府への直諌、諸宗の強折、極楽寺良観、上ろう尼御前達の策動の訴に依るとはいえ、その本質は釈尊の末法への未来記である法華経の身読と、その法華経の行者として釈尊の仏記を助け、一閻浮提第一の聖人、末法の御本仏たる御身の証得顕本と、末法の一切の人々を救済弘通される為であったと言う事が出来ましょう。
  つまり釈尊は法華経の法師、宝塔、勧持品に於いて、末法の法華経の行者に悪口罵詈、刀杖の難、数々見擯出を加える三類の強敵の出現を予想し、また其の経文を現実に御身にあてて行ぜざれる仏の末法への御出現を、法華経の神力品に予証したのでした。
  従ってもし大聖人が御出現にならず、しかもこうした大小の難をお受けにならなかったならば、釈尊の経文の予言と五十年の化導は悉く虚妄となり、釈尊は大妄語の人となってしまうのです。
  大聖人は『開目抄』に、
  「当世、法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。(中略)経文に我が身普合せり。御勘気をかほれば、いよいよ悦びをますべし」(御書541n)
とさえ仰せになっておられます。
  「法華経の行者」「一閻浮提第一の聖人」とは、とりも直さず三徳有縁の末法の御本仏に他なりません。
(平成20年9月12日 竜口法難会において)

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