平成20年12月1日発行 高照山 第252号
妙光寺執事 内海雄幸

『立正安国論』を拝して

 御会式は『立正安国論』の御精神に基づき、御歴代上人の申状を奉読し、もって、折伏をお誓い申し上げる儀式でもございます。今夕は、『立正安国論』の正しい意義と実践の大事なことを申し上げて、共々に、この御会式を機に発心をしたいと思います。
  大聖人様が『立正安国論』に仰せのように、
  「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(御書234n)
という、今末法は、まさにそういう時代であります。
  「安国」ということについて『立正安国論』には、
  「世は羲農の世と成り国は唐虞の国と為らん」(御書248n)
  「然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや」(御書250n)
と記されております。ここには、必ず立正の暁には仏国土として、衰えない壊られない安らかな国土が建設されるという、確信が拝されます。
  ここに挙げられた「羲農の世・唐虞の国」とは、中国の古代に、三皇五帝が治めた平和の世と伝えられるもので、実際に存在したものではありませんが、正しい法を立てた暁には、そのような理想的な国が実現するということを仰せられたものと拝されます。
  また「皆仏国・悉く宝土」については、仏様が住んでいる国土ということですが、その仏国土と申しましても、仏教のなかには実に様々な仏が出てまいりまして、その仏様が説く教えにも、高い教え、低い教え、浅い教え、深い教えと、いろいろあります。ですから、その法に基づく仏国土の様相も様々にあるわけです。そこで、最高の教えを選択して、最善の本当の仏国土を実現するために、何よりもまず「立正」すなわち正法を立てるということが大切になるのであります。
  さて、日蓮大聖人様の御在世当時、鎌倉時代の世相は、一体どのようなものであったのでしょうか。
『立正安国論』の冒頭には、
  「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へ て一人も無し」(御書234n)
と、このような有名な御文がございます。
  現在の時代も、正法時代、像法時代、末法時代という仏教上の時代の立て分けのうえから言うと「末法万年のうち」というわけであります。しかし、現在の我々の生活は、まず着ているものは、それぞれファッションをこらして、いろいろなものをもって身を飾っております。また食べ物も、グルメという言葉が存在するように世界各国のいろいろな食べ物を食べることができます。また住まいに関しても大変に便利な電気機器が揃い、ボタン一つで何でもできます。ところが同じ末法の時代と申しましても、大聖人様の御在世時代は大変厳しい世の中でありました。先ほども拝しましたように『立正安国論』の冒頭に「骸骨路に充てり」と書いてありますが、死人の骸骨が路にごろごろと転がっているというような光景は、現在の日本では全く見ることができないことだと思います。当時の世相と現在、我々が生きている時代背景とは、同じ末法でも、表面上で見ると、かなり相違があると感じられます。
  そこで『立正安国論』の背景を探って、いったい、大聖人様が如何なる御心で「立正」を唱え、如何にして「安国」の世界を築いていくことを御主張なされたのかということを、私どもが深く知ることが大切だと思うのであります。
  また同じ末法に生まれ合わせました私どもは、決して現在の安逸に惑わされることなく、その末法の本質的な時代性というものを、何時までも忘れてはならないと思うのであります。
大聖人様は『立正安国論奥書』のなかで、
  「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の剋の大地震を見て之を勘ふ」(御書419n)
とおっしゃっておられます。『立正安国論』を著される直接の動機となったのは、正嘉元年の大地震であったということでございます。
  当時の鎌倉時代の地震・災害について、その資料となるものを尋ねますと、『吾妻鏡』というものがあります。これを基にして日蓮正宗の『富士年表』にもいろいろな災害の記録が載せられております。飢饉・疫癘・水害・台風、様々なことが書かれておりますが、そのなかから地震だけを取って考えてみますと、大聖人様が御誕生になった西暦1222年の貞応元年2月16日から、『立正安国論』を幕府に提出なされた西暦1260年の文応元年7月16日までの38年5カ月の間に、『富士年表』では鎌倉で7回の大地震があったというように記載されております。しかし、これは、ごく大規模な地震だけを取り上げたもので、実際に『吾妻鏡』をざっと閲覧して見ますと、38年間に「大地震」と書かれてあるものが約15回、それから「地震」と書いてあるものが25回起きております。この38年間に25回ということは、約2年半ごとに1回、大地震があったというこになります。現在、2年半ごとに、しかも同じ地域で、このような大地震があるということは、皆さん方がそれぞれ御自分の記憶をたどってみても、今までに15回以上も大地震があったでしょうか。関東大震災や、あるいは阪神・淡路大地震の時ほどの地震は、度々なかったはずであります。少なくとも実際に関東においては、1923年(大正12年)以来、大地震は起きていません。
  『吾妻鏡』には大地震の記録は、どのように書いてあるかというと、その殆どが「何月何日、干支、何の刻、大地震」とだけしか書いておらず、その被害状況につきましては実は詳しく記されておりません。しかしながら『立正安国論』御著作のきっかけとなった正嘉元年8月23日の大地震については、特別長く、ちゃんとした記録が、『吾妻鏡』第四十七巻という所に残っております。すなわち、
「(正嘉元年八月)廿三日乙巳、晴、戌剋大地震、音有り、神社仏閣一宇として全き無し、山岳頽崩し、人屋顛倒し、築地皆悉く破損す、所々地裂け、水涌き出ず、中下馬橋辺地裂け破れ、其の中より火炎燃え出ず、色青し云云」
と、このようにございます。
  この時の地震は家屋がひっくり返ってしまった。そうして山が崩れる。地割れがする。そこから火が吹き出るというような災害の状況であったということが伝えられております。しかし、もっと突っ込んで、この災害によって庶民が如何なる苦しみに遭ったのか、どういう状況下で生きていたのかということについては『吾妻鏡』だけでは分かりません。そこで大地震のときの庶民の様子を記録したものに、ほかに当時のものとしては残ってはおりませんので、代わりに大聖人様がお生まれになる西暦1222年よりも10年ほど前の1212年に、鴨長明という人が『方丈記』というものを残しておりまして、そのなかに、「これは末法の様相だなあ」と、そういうふうに言うしかないものが残っております。その所をちょっと長くなりますがお伝えしたいと思います。原文は文語体で書かれていますので、これを現代語に訳しますと、「養和年間(西暦1181〜2年)のころだったと思うが、ずっと昔になってしまったので確実に記憶しているわけではない。2年間どこもかしこも飢饉になって、あきれるようなひどい事態となった。ある年は春と夏に干魃、ある年は秋と冬に大風とか洪水とか、悪いことが次々に続いて、農作物は全く実らない。こうしたわけだから唯の骨折り損となって、春の耕作と夏の田植えだけはやっても秋の稲刈りや冬の収穫という賑わいがない始末。このため諸国の農民はあるいは我が家をそのままにして山に入り込んでしまう。朝廷ではいろいろな御祈祷が始まり、特別念入りの修法が執り行われたけれども、さっぱりその効果がない」と、そのように鴨長明という人は書いております。
  これと同じようなことが『立正安国論』のなかにも、その災害の対策として説かれております。
  「或は利剣即是の文を専らにして西土教主の名を唱へ、或は衆病悉除の願を恃みて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め、或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調へ、有るは秘密真言の教に因って五瓶の水を灑ぎ、有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし」等(御書234n)
とあるように、浄土宗・天台宗・真言宗・禅宗等々の宗派が、政治のお先棒として御祈念をしましたが、
  「然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼り、乞客目に溢れ死人眼に満てり」(同上)
と、全く効果がなかったことが、大聖人様は『立正安国論』に記されております。
  地震についは、斉衡2年(西暦855年)5月に、地震によって奈良の大仏の首が落ちたという記録がありまして(日本文徳天皇実録巻第七)、『方丈記』にもこのことが触れられております。また治承4年(西暦1180年)12月には、平重衡が興福寺・東大寺を焼き払った際に、大仏の首が後ろに落ちてしまったということもありました(東大寺造立供養記)。こういったことも、末法において、仏の力がなくなってしまったことを感じさせる出来事であります。
  しかし、鴨長明が『方丈記』を書き終わる10年後に、まさしく末法の五濁悪世というなかに、大聖人様が御誕生になるわけであります。
  世の人びとは災害に追われ、生きることに疲れ果てて、念仏の西方十万億土にしか自分の望む所はない。この世界は苦しみの充満する娑婆世界であって、今は希望の持てない末世だ。だから西方極楽浄土を目指して念仏を唱えなさいという、浄土宗・浄土真宗の教えが大変に流布をしたわけであります。そして、その念仏がいよいよ一国を覆うようになって、諸天善神が国土を去り、ますます災害が起こってくる。対策としては、慰み程度のことしか方法はないというのが末法の時代の様相でもあります。この末法ということは単なる五濁悪世、時代が悪く、災害が続くということだけではありません。もう現存している仏法の何をやっても救われない時代ということで、念仏・真言・天台・禅・律宗等のあらゆる仏教を、どんなに信仰しても、あるいは、どのように御祈念をしてみても、もう利益がないというのが末法であります。
日蓮大聖人様の御出現は、そういった単なる慰めではなく、実際に「立正安国」を説かれて、幕府を諌暁し、正しい法を立てて、この世を安穏にするのだと、その方途を示されたのであります。ここに大変な意義のあることを知らなくてはなりません。
  ところで『立正安国論』に示される理想国としての平和な国土、安穏なる仏国土とは、如何にすれば実現するのでしょうか。それは「立正」すなわち正しい仏法を国土に打ち立てることによって可能になるわけであります。大聖人様は『当体羲抄』に、
  「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解 脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(御書694n)
と示されております。
  この御本尊様を信じて、南無妙法蓮華経と唱える人の居住する国土こそ、常寂光土すなわち仏国土であると仰せであります。ゆえに広宣流布が成就されたときに、仏国土としての「安国」を見ることができるわけであります。この「安国」ということは、ただ単に政治的に安定し、経済的・物質的に繁栄した国土ということであるならば、それは絶対的な永遠性を持ち、すべての人びとの心を安定させるものではありません。なぜならば国土と言っても、人を離れた国土など存在をするはずはありせん。所詮、人間が成仏をしない限
り、本当の安国は築けないのです。もし全人類が、ことごとく、例えばお釈迦さんのように三十二相八十種好を具えるというのであれば、話は別であります。しかし、そういう色相荘厳の仏を目指し、完全無欠な寂光土を建設したいと願ったとしても、それは見当違いです。伝教大師は、次のようにおっしゃっております。
  「権教の三身は未だ無常を免れず、実教の三身は倶体倶用なり」(守護国界章巻下之中、御書1410n)
  所詮、三十二相八十種好を具える色相荘厳の仏様というのは、権仏、権りの仏様であるということであります。例えば鎌倉の大仏や奈良の大仏のような仏様であります。あれが三十二相八十種好と言われる仏様であります。ああいう仏像をいくら建立しても、あるいは参拝しても、それだけでは絶対に成仏できないということであります。なぜか、それは権仏であるからです。真実の仏ではないからであります。したがって、権仏の住む仏国土は『立正安国論』に仰せの宝土でもなければ、仏国土ではないということになります。
日蓮大聖人様の「安国」とは、そうした安穏な理想的な、目標となる国土を、あくまでも本当の仏様が説く成仏の教えによって、現実に寂光土として築き上げることを根本に置いておられるわけであります。
ゆえに日蓮大聖人様は『立正安国論』に、
  「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん」(御書250n)
と仰せられた所以は、大聖人様の御当体、すなわち十界互具の御境界を顕された事の一念三千の御本尊様を信じるということであります。すなわち、本門戒壇の大御本尊様がおわします大石寺が仏国土における最勝の地でもあるということであります。私たちは、その大石寺を総本山と仰ぎ奉り、そうして自分自身が住んでいる地域にも、大石寺と同じような仏国土を建設するという意志を持つことが大切であります。そうして、我々が御本尊様を前にして、勤行唱題をするときに、
  「南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、色心を妙法と開くを化城即宝処と云ふなり」(御書1745n)
と仰せの通り、この娑婆世界が、そのまま寂光土であるということに気づくということであります。そして「身は是安全にして、心は是禅定ならん」という境涯に至ることができますよと、いうことであります。ゆえに安国なる世界は、広宣流布の暁に多くの人びとの大御本尊様への信心の一念と、そうして勤行唱題の実践行が自らの心に常寂光土をつくり、それが皆様が住んでいる地域、国土に反映され、そして諸天善神に守られ、おのおの個人の環境に、その大きな実証を見ることができるようになるわけであります。
まず私たちは、機会あるごとに寺院に参詣し、何よりも総本山に登山をして、常に根本の大御本尊様に連なる信心を心掛けつつ、命を革新していくということが大切であります。
相次ぐ災害の最大の根本原因は『立正安国論』に仰せのように、
  「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来た鬼来たり、災起こり難起こる」 (御書234n)
と仰せのように、あらゆる災禍は、世間に充満するところの謗法に起因するということを自分も解り、そうして他人にも教えて、一人でも多くの人を折伏し、使命を果たしていくところに、今後の災害、あるいは事故等々に対しましても、最善の対処ができるということを確信するものであります。
この『立正安国論』は文応元年7月に幕府に上呈されたわけであります。日蓮大聖人様は立教開宗をしたのが建長5年でありますから、それから僅か8年目であります。そして、またその時期はまだ御自身が仏であるということをお顕しになる発迹顕本以前であります。しかし、大聖人様には、立教開宗のとき、日蓮と名乗られ、南無妙法蓮華経と唱え出された当初から、既に「立つべき正法」すなわち下種仏法の法体が、大聖人様のお心の内にあったと拝さねばなりません。
  大聖人様は、今日も拝読申し上げました宿屋左衛門に対する申状のなかにも、
「君の為、国の為、神の為、仏の為」(御書370n)
と仰せられているように、御自身のことよりも主君、国家、諸天善神、仏のために申すのであるとおっしゃっておられます。この大聖人様のお心を、七百年経った現在においても、我々は、決して忘れることなく、正法をもって衆生を済度していく、広めていく、折伏をしていくという、まさしく大聖人様が『立正安国論』を提出されたときのお心に、しっかりと添い奉っていかなければなりません。
  日蓮大聖人様は、
  「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(御書300n)
と仰せられております。自分だけの唱題ではありません。「他をも勧めんのみこそ」このように仰せられております。この自行化他の信心、折伏の信心こそ「今生人界の思出なるべき」人生を歩むうえでの最高の思い出であると、このように大聖人様が仰せであります。私たちは、大聖人御在世当時の厳しい状況を忘れることなく、また御法主日如上人の御指南を拝し、弟子信徒として、常に怠らず、目睫に迫った『立正安国論』正義顕揚七百五十年の御命題達成に向けて精進していきたいと思います。自らの人生のうえでも、また未来の法華講衆にとっても、今私たちが折伏によって最高の思い出をつくり、そうして折伏によって法華講の盤石な土台をつくる時であるということを再認識し、共々に精進してまいりたいということを申し上げ、今夕の法話に代えさせていただく次第でございます。本日の御参詣、まことに御苦労様でございました。
(平成20年10月18日 御逮夜法要において)

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