平成21年1月1日発行 高照山 第253号
建治元年5月 54歳
妙一尼御前御消息(三)

 しかるに聖霊は或は病子あり、或は女子あり。われすてゝ冥途にゆきなば、かれたる朽木のやうなるとしより尼が一人とヾまりて、此の子どもをいかに心ぐるしかるらんとなげかれぬらんとおぼゆ。かの心のかたがたには、又日蓮が事、心にかゝらせ給ひけん。仏語むなしからざれば法華経ひろまらせ給ふべし。それについては、此の御房はいかなる事もありていみじくならせ給ふべしとおぼしつらんに、いうかいなくながし失せしかば、いかにやいかにや法華経・十羅刹はとこそをもはれけんに、いまゝでだにもながらえ給ひたりしかば、日蓮がゆりて候ひし時、いかに悦ばせ給はん」(御書832n)」

(解説)
 早速、御文に入りますと、「しかるに聖霊は或は病子あり、或は女子あり。われすてゝ冥途にゆきなば、かれたる朽木のやうなるとしより尼が一人とヾまりて、此の子どもをいかに心ぐるしかるらんとなげかれぬらんとおぼゆ」。しかしながら、聖霊(亡くなられた妙一尼の夫)には或いは病気の子供がいる。或いは女の子供がいる。妙一尼の夫は、自分が彼らを捨てて冥土に赴くならば、枯れている朽ち木のような年寄りの尼(聖霊の妻である妙一尼)が一人留まって、この子供たちを抱えて、どれほど心苦しく辛い思いをするだろうかと嘆いておられると推察される。
  「かの心のかたがたには、又日蓮が事、心にかゝらせ給ひけん」。そのように遺族を思いやる心の他方では、また日蓮のことが、気になっておられることでしょう。
「仏語むなしからざれば法華経ひろまらせ給ふべし」。仏様の言葉が虚しいものでないならば、法華経は広まる事でしょう。
法華経の『薬王菩薩本事品第二十三』には、
  「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(法華経539n)
と説かれており、『普賢菩薩勧発品第二十八』にも、
  「如来の滅後に於て、閻浮提の内に広く流布せしめて、断絶せざらしめん」(法華経603n)
と予証されています。つまり、釈尊の滅後に必ず法華経が全世界に広まりまして、すべての人びとが正しい信心をする時が来るというふうに、法華経に説かれているということであります。
  「それについては、此の御房はいかなる事もありていみじくならせ給ふべしとおぼしつらんに、いうかいなくながし失せしかば、いかにやいかにや法華経・十羅刹はとこそをもはれけんに、いまゝでだにもながらえ給ひたりしかば、日蓮がゆりて候ひし時、いかに悦ばせ給はん」。それについては、この御房(日蓮大聖人様)は、何らかのこともあって、たいそう世に尊ばれて立派になられると思われたであろうに、その甲斐もなく流罪にされてしまったのであるから、どうして法華経や十羅刹女はお助けしなかったのだろうかと思われたであろう。妙一尼の夫が、今まで生きながらえていたならば、私が赦免された時、どれほど悦ばれたことだろうか。
  法華経の『陀羅尼品第二十六』には、
  「十羅刹女、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏所に詣で、声を同じうして仏に白して言さく、世尊、我等亦、法華経を読誦し、受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す。若し、法師の短を伺い求むる者有りとも、便を得ざらしめん」(法華経579n)と説かれておりまして、十羅刹女等は、法華経の行者が災難に遭わないように守護することを仏様に誓っているのであります。したがって、末法の法華経の行者、御本仏であらせられる日蓮大聖人様に対して、なぜ十羅刹がお助けをしないのかと、疑問に思われたであろうと仰せであります。
  大聖人様が、佐渡に流された翌年、文永9年9月にお弟子の日昭の母に与えられた『弁殿尼御前御書』によりますと、
  「日蓮其の身にあひあたりて、大兵ををこして二十余年なり。日蓮一度もしりぞく心なし。しかりといえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの、大体或はをち、或は退転の心あり」(御書686n)
とありますから、大聖人様が竜口の頚の座に続いて、佐渡島に流されるに及んで、当時、鎌倉にいた信者のほとんどが退転をしてしまったようであります。
  柿沼日明贈上人著『富士』の「竜口法難論」に、
  「キリスト教徒の内村鑑三は聖人の竜の口の法難を批評して、竜の口で日蓮が処刑されていたら、もっと日蓮教徒はふえていたろうというようなことをいっておる。日蓮が処刑されていたら、日蓮の教徒は奮起して、運動を起こして、日蓮教徒は現在の数の倍あったろうというようなことをいっておるが、それは、日蓮聖人を少しも理解していない無責任な放言である。キリスト教徒はキリストが処刑されたことを誇りにしておるが、仏教の方の考えからいうと、これは決して誇りとはならない。仏教では聖人に横死なしという言葉があって、聖人は横死をしないのである。聖人というのは仏の別名で、開目抄には仏を聖人と称するとある。仏様は横死をしないということになっている。キリストが十字架にかかったことをキリスト教徒は万人の罪のつぐないであるとかいって美化しておるが、仏教徒からみると、それは受けとれないことになる。十字架の処刑は横死とみるのである」と記されています。
  さて、私たちは、日常のさまざまな事柄に対して判断をして行動を起こします。それは、善悪を判断して行動を起こすこともありますし、あるいは損得を判断して行動したり、あるいは好き嫌いや、興味があるか無いかによって行動を選んだり、あるいは人がどう思うかという他人の評価を気にして、良く思われたいと願って、そういう方向に行動する場合もあるでしょう。
  しかし、幼い子供のうちならばともかく、一人前に成長して、責任ある社会人になりますと、好き嫌いや自分の興味だけではなく、物事の道理、善悪、利害、正邪等を全部含めて、総合的に判断をして、行動をしなければなりません。人間はだれしも好き嫌いという感情を持っておりまして、どうもあの人は性に合わないということはありがちです。医者嫌いというような人もいるようでございます。しかし、健康をひどく害したり、命に関わる怪我をした場合には、急いで病院に行って、お医者さんに看てもらわなくてはなりません。私たちの周囲には好き嫌いで判断しても良いことと、そうではなくて、善悪、損得、利害、正邪等を考え併せて、行動しなければならないこともあるわけであります。好き嫌いの感情だけで行動することは、極めて幼稚な行動であると言えます。
  私たちが行っている日蓮大聖人様の信仰が、趣味とか道楽とか、あるいは一種の流行ものに過ぎないのであれば、それは好き嫌いの感情で、やってもいいし、やらなくてもいいわけであります。
  しかし、大聖人様の教えは、どんな境遇の人に対しても、すべての人びとに、正しい生命観、根本となる人生観に立脚して、真実の幸福を築き上げるための道を教えてくださっております。この大聖人様の信仰を実践することによって、私たちは、個人個人の生命力をより活き活きとして、人生を力強く充実したものに変えることができると、教えられているわけであります。私たちの人生は、いつどこで、どんな災難が起こるか分かりません。自分自身の本当の幸福というものは、家族や、周囲の人びとや、社会全体の幸せとも通じているのであります。一日一日を正しい信仰によって生活するということは、あたかも羅針盤を備えた船のように、幸福という目標に向かって、正しく前進して行くことにも繋がっていくわけであります。好き嫌いに捉われず、真実の仏法に耳を傾けて、信仰というものが、ぜひ必要なのだということを、私たちは本当に知らなくてはなりません。
『立正安国論』正義顕揚七百五十年に当たって、私たちは、このことを自らも知り実践し、そして他の人にも勧めていくということを忘れてはなりません。
  皆様方には、大佳節の年、いよいよ大信心を奮い起こして、下種折伏に精進されるようお祈り申し上げ、本日の御書講に代えさていただきます。本日はお寒いなかの御参詣、まことに御苦労様でした。
(平成20年12月14日 月例報恩御講において)

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