平成21年2月1日発行 高照山 第254号
妙光寺執事 内海雄幸

大聖人様の御守護を賜って

 ただ今は12日の御逮夜唱題会に当たりまして、皆様方と共に読経唱題を申し上げ、謹んで妙光寺支部、正道講支部の折伏誓願目標の達成、ならびに50万総登山・支部総登山、そうして7月26日の地涌倍増・7万5千大結集の大総会、これらの目標達成を御祈念申し上げた次第でございます。
  本日は「漢」という字についてお話をいたします。つまり「漢字」の「漢」という字です。もともとは「天漢」と申しまして、天の川(銀河)のことを言ったようであります。また「怒る」という意味もありますし、「男子」の意味もあります。ある物事に疎い人、専門家以外の人のことを「門外漢」と言います。また、男の人を賎しんで言う意味もありますから、悪いことをする男のことを「悪漢」と言ったりします。さらにまた、意志が強く、権勢に屈せず、自分の主張を曲げない人のことを「硬骨漢」という表現で申したりもいたします。そのほかに「漢」という字は、中国本土や、そこに住む民族や、国家のことを言ったりいたします。
  古代の中国において、前漢という王朝がありました。この王朝は、中国で秦という国が滅亡した後、紀元前206年から紀元前202年の約5年の間、次の政権を巡って、西楚の覇王であった項羽と漢王の劉邦とが、中国のほぼ全土に亘って内戦を繰り広げました。その項羽と劉邦の戦いにおいて、劉邦が勝利を収めて、漢の高祖として称される皇帝の位に就き、いわゆる前漢という国家を建てて、長安を都としました。その高祖劉邦の後を継いだのが嫡男の恵帝であります。
  恵帝については、日蓮大聖人様は『観心本尊抄』の末文に、
  「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、太公・周公の文王を摂扶し、四晧が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり」(御書662n)
と、その名前を引用なされております。
  つまり、宇宙法界の全体は、すべて我々の一念に具わり、我々の一念の全体は宇宙法界に遍く行き渡っているという仏法の極理、すなわち一念三千の法門は、法華経の本門寿量品の文の底に秘し沈められていますが、この一念三千を識らない者のために、仏様は大慈悲を起こして、南無妙法蓮華経の五字七字の御本尊様の内に、この宝の珠をつつんで、末法の幼稚な私ども衆生の頚にかけてくださるのであります。末法に出現する地涌の菩薩の上首、唱導の師としての上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩、なかでも上行菩薩の再誕としての日蓮大聖人様が、この妙法の御本尊を受持信仰する私どもを守護してくださるのであります。それは、あたかも中国の古代において、周の文王が、けい水と渭水で猟をした時、太公望呂尚を見いだして連れて帰り、この太公望が軍師として文王に仕えたことによって天下を治めることができたと言われております。
  また、周の文王の孫の成王誦は、父の武王が亡くなった後を継いで、即位した時は、まだ幼少であったために、実際の政務は、叔父の周公旦が後見役として摂ったと言われています。
  また、漢の高祖、劉邦には、後継者の候補として、呂后が産んだ孝恵(恵帝)と、側室の戚氏が産んだ劉如意がおりました。孝恵は太子となりましたが、生来、人にやさしく弱々しい性格で、高祖は、自分に似ていない孝恵太子を廃して、趙の隱王となっていた庶子の如意を太子に立てたいと思っていました。側室の戚姫も日夜、高祖に泣きついて、如意を太子に立てて欲しいと訴えました。大臣たちも二派に分かれて爭っておりましたが、まだ決着が付いていません。そのことを恐れた呂后は、どうしたらよいか判らずにいると、ある臣下が「留侯(謀臣の張良)は善く計画を立て、お上もこれを信用しておるから、相談したらどうですか」と進言しました。そこで呂后は長兄の建成侯呂澤を通じて留侯張良に対して「あなたは常にお上のために謀臣として仕えておる。今お上は太子を易えようと欲している。あなたは、どうして枕を高くして寝ておられようぞ」と言わせました。すると留侯張良は「始めお上は数々困急の中に在って、幸いに臣下の私の計り事を用いてくださいました。今天下は安定し、愛着をもって太子を易えようと欲しておられます。骨肉の間の争いをすることは、我々臣たちにとって、何の益があるでしょうか」と答えました。呂澤は強要して「我が為に計画を立てよ」と言いました。留侯張良は「このことは口舌をもって争うことはできません。顧みるに、お上が尊敬している者が、天下に四人あります。この四人の者は年老いて、皆“お上は人を慢侮しておられる”と思って、逃れて山中(商山)に隠れ、義として漢王の臣下にはなろうとしておりません。しかし、お上はこの四人を高く評価しておられます。今、公が誠意を尽くして、黄金や玉や絹などの進物を惜しまず、太子をして書を遣わし、謙って坐乗する車を仕立てて、弁士をして固く要請すれば、きっと来るでしょう。来たならば、お客として迎え、時々従者として朝廷に参上し、お上に会わせれば、必ず不審に思って之を問われることでしょう。そうすれば、お上がこの四人の賢いことを知って、孝恵太子が次の皇帝の位に即くための一助となるでしょう」と申しました。そこで、呂后は呂澤に言い付け、人をして太子の書を奉ぜしめ、辞を卑くし礼を厚くし、此の四人を迎えさせたのであります(史記卷五十五、留侯世家第二十五)。ここで言う「商山の四皓」とは、東園公?綺里季?夏?公??里先生のことで、恵帝の良き補佐役を勤めたということであります。
  地涌の眷属として、平成21年『立正安国論』正義顕揚七百五十年を迎えた私たちは、どこまでも折伏を行じ、すばらしい徳を積み、信頼できる友人、善知識というものを講中全体で得て、さらに、いまだ大聖人様の大仏法を知らない知人・友人を同志の輪に誘って、共々に総本山に参詣していただきたいということを申し上げまして、本日の講話に代させていただきます。本日の御参詣まことに御苦労様でした。(平成21年1月12日 御逮夜唱題会において)

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