平成21年2月1日発行 高照山 第254号

三ツ木について

 現在、高照山妙光寺のある所の地名は、「品川区西品川」となっているが、昔は「三ツ木」と呼ばれていた。元禄15年(1702) に完成した『元禄国絵図』には、南品川と北品川の「枝郷三木村」として別けて載せられていたが、文政13年(1830)に『新編武蔵風土記稿』が完成したころには、単に武蔵国荏原郡内の南品川宿と北品川宿の「枝郷三ツ木」と称されており、村ではなくなっていた。そうして鎮守の貴布祢(貴船)神社の門前と、社地の門前は、江戸府内に属し、町方が支配していた(御府内備考巻之百九)。
  しかし、天保13年(1842)の『品川目黒辺絵図』(国立国会図書館蔵)には「三ツ木村」として書かれている。
  北品川宿の枝郷三ツ木は、西は戸越村、南は二日五日村(現在の南品川ゼームス坂一帯)、北は南三ツ木に接し、東は品川宿の耕地に接して、数戸の人家があったと言われている。
  南品川宿の枝郷三ツ木は、西は戸越村、南は北三ツ木、北は居木橋村(現在の大崎1丁目〜5丁目および西品川3丁目)、東は品川宿の耕地に接して、北三ツ木と同様、数戸の人家があったと言われている(品川の歴史シリーズ 地名編)。
  北品川宿の枝郷三ツ木と南品川宿の枝郷三ツ木の南北の位置関係は、名称とは逆で、南三ツ木の方が北にあったということである。
  三ツ木の根岸家の総本家に当たる武州荏原郡三ツ木村根岸仙之助は、目黒の屋根職の棟梁、浅見市五郎の教化によって、当時の日蓮宗一致派から日蓮宗勝劣派のうちの富士派(日蓮正宗)に改宗して、天保13年(1842)3月7日、第51世日英上人より、紙幅御本尊を授与された。しかし、当時は転宗転派が公にはできなかったので、所属寺院は表向き元のままであった。
  明治3年(1870)の『人別帳』(宗門人別帳、利田家文書219 品川歴史館蔵)には、
  「武州荏原郡南品川宿枝郷三ツ木 百姓        明治三午 五十一歳 八五郎
畑方 合中畑壱反三畝歩
  嘉永二酉四月 武州荏原郡居木橋村百姓金蔵娘娶 妻 明治三午 四十六歳 志 津
         女子 明治三午 弐十弐歳 こ う
         男子 明治三午 十九歳 鉄八(五)郎
         男子 明治三午 十七歳  春太郎
        女子 明治三午 十四歳  な を
         男子 明治三午 十一歳  平 八
         同 明治三午  四歳 安之助          〆八人
荏原郡南品川 日蓮宗海徳寺」
という記載がある。この文書は、南品川の名主、利田安之助の手控えであり、役所に提出された原本の末尾には「拙寺檀那に紛れ御座無く候」というような文言が書かれ、海徳寺の証印が押されていたと思われる。
  この人別帳に記されている「八五郎」とは、天保年間に本宗に改宗した初代、根岸仙之助の息子で、この人別帳が書かれた18年後の明治21年6月16日に寂している。根岸家の過去帳等によれば、法名は貫道院行専日壽居士となっているが、何歳で亡くなったかは記載がなく、これまで不明であったが、この人別帳によって、行年は69であったことが判った。
  なお、当時、根岸家が所属していた「海徳寺」とは、現在の品川区南品川1−2−10にあり、自覚山と号し、日蓮宗京都本国(圀)寺の末寺で、(大永2年〔1522〕開創)開山は日増、天文14年(1545)寂、寺地4933坪」(明治7年 東京府志料 品川区史資料編709n)ということである。
  また、この『人別帳』には、南品川枝郷三木の百姓で、当時33歳の「小七」という名の記載も見え、この一家は「南品川 日蓮宗本栄寺」の檀家として記されている。この人は元三ツ木講中の講頭を勤めた岸小七の先祖ではないかとも思われる。元三ツ木講講頭の岸小七は昭和31年(1956)11月9日寂で、法名は梵行院法岸日到居士、行年は71であるから、この人別帳が作成された明治3年(1870)の時は、まだ誕生の15年ほど前になる。したがって、人別帳に記載された「小七」は、元三ツ木講講頭の岸小七の先々代あたりの方であろうか。
  なお、岸家の先祖の所属寺院「本栄寺」とは、品川区南品川1−10−17にあり、「宝光山と号す、日蓮宗本光寺末、創建宝徳2年(1450)、中興開山日怡寛文2年寂す、寺地829坪」(明治7年 東京府志料 品川区史資料編709n)。現在でも「岸家」と書かれた近年建てられた墓が2〜3存する。戦国時代か、江戸時代のころに枝分かれした岸家の子孫が、今も本栄寺の檀家として残っているのであろうか。
  本栄寺の本寺筋に当たる「本光寺」とは、現在、品川区南品川4−2−8にあり、「経王山と号す、本寺同上(顕本法華宗 京都妙満寺 開祖日什)、永徳2年(1382)日什創建、寺地は6350坪」(明治7年 東京府志料 品川区史資料編709n)ということである。大正11年(1922)第一京浜国道の改修、大正15年の目黒川の直線化および川幅拡張により、寺域は縮小された。
  同寺の墓地には「文禄二癸巳年(一五九三)。十一月吉日。妙法 清祐篤信。宇田川権左衛門」と刻まれた古墓があるという(品川の民俗と文化183n)。三ツ木の谷岸家の初代ミツは、品川の豪族、宇田川備前の娘で、延宝4年(1676)11月2日寂、法名は利照院妙周日應、行年は90ということであるから、後10代の谷岸庄兵衛が、安政2年(1855)8月に、第51世日霑上人より紙幅御本尊を賜る以前は、日什門流の本光寺の檀家であったと思われる。
  品川妙光寺開創の際、檀中総代として、谷岸家の第12代当主の庄兵衛(瀧次郎)は、妙光寺の用地の一部に充てるため、明治25年(1892)11月29日に、南品川宿の海軍宿、雨宮傳左衛門所有の畑と林、合計541坪を買い取ったが、その時の地名は「東京府荏原郡品川町字南品川宿1025番地南三ツ木」となっている。なお、そのころの谷岸庄兵衛の住所は「東京府荏原郡品川町北品川宿993番地」であった(妙光寺百年史)。(編集室 記)

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