平成21年3月1日発行 高照山 第255号

平成21年の目標達成を期して

 伝統ある妙光寺支部の第45回総会、皆様まことにおめでとうございます。総代・講頭・副講頭・役員の方々をはじめ来賓の皆さん、妙光寺支部の皆さんの参加を得て、今年も盛大にこの支部総会を開催することができました。また、妙光寺の誇る「すずかぜ合唱団」「希望の星鼓笛隊」の皆さん、この寒い季節に行われた総会に温かい大きな花を添えていただきまして、大変ありがとうございました。
  さて、いよいよ待望の『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節を迎えました。正義顕揚とは、『立正安国論』に御指南あそばされる立正安国・破邪顕正の実践により、日蓮大聖人様の理想を、この社会において実現することであります。そして、僧俗一致の大折伏戦を展開して、御命題を達成するという意味があります。
  先ほど、酒井講頭さん・岸副講頭さんよりお話がありましたように、平成21年の年間実践テーマは、次の3項目であります。
  一、50万総登山の達成
  二、7万5千名大結集総会で広布へ出陣
  三、全講員が勤行唱題と折伏の実践
以上の実践テーマは「地涌倍増・大結集・総登山」の御命題達成に直結する大切な指針となってまいります。
  第68世御法主日如上人猊下は、
  「立正安国の原理を掲げ、本因下種の妙法をもって一切衆生救済と仏国土実現を目指していくのが、地涌の菩薩の実践行であります」(大日蓮720号23n)
と、このように仰せであります。これは年間テーマを実践するうえでの大事な御指南でございます。
  この御指南を体し、年間テーマの趣旨を深く心に刻んで、慶祝記念目標の完遂に向けて勇猛精進しなければなりません。
  そのためには、私どもが正義顕揚ということと、結集ということについて、正しく理解をするということが必要であります。本日は、この場をお借りして、その正義顕揚と結集ということについて、少々述べさせていただきます。
  まず、正義顕揚について、具体的に何を指して正義とするのかということについて触れなくてはなりません。実は何を指して正義というのかというところが、邪宗日蓮宗をはじめ創価学会などの新興宗教は、非常にあやふやであります。それは日蓮大聖人様からの血脈付法がないために、その時代、その時代に振り回される形で教義が変わってしまっているからであります。そうならないために『立正安国論』とは何か、どういうことが説かれているかということについて、簡単にお復習いしておく必要があろうかと思います。
  日蓮大聖人様は、文応元年(西暦1260年)7月16日、時の最高権力者であった北条時頼に対して『立正安国論』を提出し、当時、頻繁に起きていた災難の根本原因が謗法にあることを明らかにし、正しい仏法に帰依することによって、平和な国土の実現が可能であることを御教示されました。この立正安国とは『立正安国論』一編全体の内容と目的とを端的に表現された言葉で、立正とは正しい仏法を立てることをいい、安国とは国を安んずることを意味します。
  総本山第26世日寛上人は『安国論愚記』において、『立正安国論』が破折の対象とされている宗旨について、
  「一部の始終、専ら法然の謗法を破し(中略)若し再往元意の辺は、広く諸宗に通ずるなり」(日寛上人御書文段4n)
と、所破の対象は一往、浄土宗の法然の書いた『選択集』であるけれども、再往、もう一歩深く立ち入ると、その破折対象は、あらゆる宗教・思想に通ずることを明かされておられます。すなわち、立正には必然的に破邪・破折の意味が含まれることを、
  「立正とは破邪に対するの言なり。正直捨方便は邪を破するなり、但説無上道は正を立つるなり」(同上)
と仰せられ、正法を立てるとき、つまり立正には必ず邪義に対する破折が伴うことを御教示あそばされておられます。したがいまして、本迹相対、あるいは種脱相対という道理を知らない天台の迹門や文上脱益の法華経を正法と立てるということは、大聖人様の御法義の立正にはなりません。法華経を信じている、あるいは法華経を読んでいるからと言って、同じわけではないということであります。
  日寛上人は、
  「立正の両字は三箇の秘法を含むなり」(同6n)
と仰せられ、立正の字に三大秘法を含むことを、字義のうえから次のように仰せられております。まず本門の本尊について、
  「初めに本門の本尊に約せば、正とは妙なり、妙とは正なり、故に什師は妙法華経と名づけ、法護は正法華経と名づくるなり。況んや天台は三千を以て妙境と名づけ、妙楽は妙境を以て亦正境と名づく。故に正は即ち妙なり。妙とは妙法蓮華経なり。妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり」(同上)
とあります。
  次に本門の題目について、
  「次に本門の題目に約せば、謂わく、題目に信行の二意を具す。行の始めは是れ信心なり、信心の終わりは是れ行なり。既に正境に縁する故に信心即ち正なり。信心正なる故に其の行即ち正なり、故に題目の修行を名づけて正と為すなり」(同上)
とあります。

 最後の本門の戒壇については、
  「三に本門の戒壇に約せば、凡そ正とは一の止まる所なり、故に一止に従うなり。一は謂わく、本門の本尊なり。是れ則ち閻浮第一の本尊なるが故なり、 本尊抄の文〔六六一〕の如し。亦是れ一大事の秘法なるが故なり、南条抄の文〔一五六九〕の如し。故に本尊を以て一と名づくる者なり。止は是れ止住の義なり、既に是れ本尊止住の処なり、豈本門の戒壇に非ずや。立とは戒壇を立つるなり」(同上)
と記されております。
  すなわち、大聖人様が『立正安国論』の最後の方において、
  「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり」(御書250n)
と仰せの「実乗の一善」とは、三大秘法総在の本門の本尊を指していることは明白であり、立正の正義も、ここにあるのであります。
  次に安国とは、立正によって、この娑婆世界に現れる果報、すなわち三大秘法の正法を広宣流布することにより、国土が安穏になることを言います。その国とは、日本一国のみを指すのではなく、日寛上人は、
  「文は唯日本及び現世に在り、意は閻浮及び未来に通ずべし」(日寛上人御書文段5n)
と示されているように、『立正安国論』は一往は鎌倉時代の日本の国を治めるために著されたものですが、再往、もう一歩深く立ち入ってこれを拝するときに、そこに示された内容は普遍的に全世界および未来に通ずることを言われたものであります。
  また、第67世日顕上人猊下は、立正安国の国の意味について、
  「大聖人の広布に関する御本意は、『立正安国論』の御真蹟中、「くに」の文字において、囗の中に玉、または或字を書き給うはわずかに十五字であるに対し、囗の中に民の字を書き給うは実に五十数字にわたることにおいて、民衆中心、民衆による仏法弘通の御意が拝されるのであります」(大日蓮495号34n)
と御教示あそばされておられます。すなわち『立正安国論』は国主諌暁の書でありますが、一人の国主に絶対的な権力があった時代と、万民に主権の存する民主主義の時代とでは、その具体的な在り方に変化があるのは当然であります。正しい教えを立てて国家社会ないし世界を安寧とするところの立正安国を実現するために、今は民衆が中心となって妙法弘通を実践していくところに、我々日蓮正宗に託された一日も忘れてはならない使命があると拝することが大切なのであります。
さて、次に結集ということを法華経を本に簡単に申し上げたいと思います。結集ということについて、新興宗教自体が、人集めはすべきではないと指導をする人が世間に数多くいるということを耳にしております。しかしながら、結集ということは法華経における重要な儀式であります。その結集なくして法華経の展開はありえません。それは法華経がその教えを受けるために結集した、ありとあらゆる人びとの成仏を説いている教典であるがゆえであります。法華経の経文のなかには、実に多くの結集の場面と、そこに参加した衆生がどうなったかということが説かれております。 まず法華経の『序品』の一番最初の部分に、
  「是の如く我聞きき。一時、仏、王舎城耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆、万二千人と倶なりき」(法華経55n)
と記されております。その他、法華経の会座に集った実に多くの衆生の名前が記されております。その他の品にも、釈尊の教えを聞いて歓喜した舎利弗・目連などの大声聞が受記、すなわち将来の成仏を許されており、また、それに関連して五百人の弟子等が同じく歓喜して受記を許されております。さらに、迹化・他方といわれる数え切れない多くの菩薩が釈尊の説法を聞いて歓喜し、発心をし、末法における折伏弘教を熱心に願い出て、誓うという場面もございます。そうして、その菩薩たちを、お前たちはその役目ではないと退けて、本化地涌の大菩薩を上首とする地涌六万の菩薩を招いて、末法の折伏弘教を託すという場面もあります。 このように見ますと、法華経に登場する菩薩や声聞や比丘というのは、まず説法の場所への結集があり、次に説法を聞いて歓喜し、そうして発心があって、同時に誓願を起こし、最後に成仏の境界を得ていくことが許されているのであります。法華経は、まさしく、そういうことが記されている経典であることに気づかされるのであります。まさに一度に多くの人が一カ所に結集し、末法での折伏弘教を発心し、誓願し、成仏を得ていく。そういう地涌六万の菩薩の眷属こそが、実に私たちなのであります。
  ですから7万5千名の結集も、6回の支部登山の結集も、この支部総会の結集も、その法華経の教えによって定められた結集であるということを忘れてはなりません。その他にも法華経には、自らがそういった結集のために寺院に参詣して法を聴聞する功徳のことについても説かれております。正しい教えを聴聞するということは大変重要でありまして、法華経の『随喜功徳品第十八』には、法華経を聞いて随喜する者の功徳は如何に大きいかということについて、「五十展転随喜の功徳」として述べられております。そして、その功徳について、経文には法華経を聴聞するために寺院に参詣し、信仰し、折伏修行する四人の功徳として、詳しく説かれております。その四人というのは全く別の人間のことではなくて、一人の人が、だんだんと、その信仰が進んでいく姿を、四つに別けて示したものであります。
  まず一人目は「自往聴経人」、つまり、自ら赴いて法華経を聴く人でありまして、
  「若し人、是の経の為の故に、僧坊に往詣して、若しは坐し、若しは立ち、須臾も聴受せん。是の功徳に縁って、身を転じて生れん所には、好き上妙の象馬の車乗、珍宝の輦輿を得、及び天宮に乗ぜん」(法華経468n)
と説かれておりまして、その功徳によって、立派な乗り物に乗り、天宮の乗り物に乗るほどの、心身共に豊かな境涯になることができるということであります。
  二人目の「分座令聴経人」、つまり、他の人に座を分かち、法華経を聴かしめる人の功徳について、
  「若し復人有って、講法の処に於て坐せん。更に人の来ること有らんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分って坐せしめん。是の人の功徳、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん」(同上)
と、天界に生じて、帝釈や大梵天王や転輪聖王の座所に座ることができるという、さらに大きな功徳を受けることができことを示しております。
三人目は「勧他令聴経人」、つまり、他人に勧めて法華経を聴かしめる人で、
  「若し復人有って余人に語って言わく、経有り。法華と名づけたてまつる。共に往いて聴くべし。即ち其の教を受けて、乃至須臾の間も聞かん。是の人の功徳は、身を転じて陀羅尼菩薩と共に一処に生ずることを得ん」(同469n)
と、菩薩界に生ずるという大功徳が説かれております。
  四人目は「具聴修行人」、つまり、具に聴き、さらに仏様の教えの通り修行する人で、
「一人に勧めて、往いて法を聴かしむる功徳此の如し。何に況んや、一心に聴き、説き、読誦し、而も大衆に於て、人の為に分別し、説の如く修行せんをや」(同470n)
と、他人のためにも勧めて、共に法を聴聞し、自行化他の如説修行に励む人の功徳は、計り知れないほど大きいということが説かれております。
  このように『随喜功徳品』に説かれている四人の功徳の源は、正しい仏法に対する強い信心であり、また正法を聴聞して随喜する心であり、さらに他をも勧めて正法を聴かしめ、共に自行化他にわたる信心修行に励むことであると説かれているのであります。
  大聖人様は『御講聞書』に、
  「所詮信と随喜とは心同じなり。随喜するは信心なり、信心するは随喜なり」(御書1849n)
と仰せであります。また『新池御書』には、
  「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(御書1457n)
と御指南なさっておられます。私たちは歓喜の心を持って共に総本山大石寺に参詣し、大聖人様の御指南の通りに、信心修行に励み、その信心の喜びと功徳を他の人びとに伝えていくということを常に心に置いて、正しい仏法を聴聞していく心掛けが大事だと思うものであります。皆様方には、本年、正義顕揚の年に当たり、まず「自往聴経人」の志で総本山に参詣し、「分座令聴経人」として総本山で大勢の同志と共に席を分け合い、激励し合い、本門戒壇の大御本尊様の御開扉を受け、法要に参列して御説法を拝聴していただきたいとと思うものであります。そして総本山から帰ったならば、その歓喜と御報恩の気持ちをもって家庭訪問を行い、今度は「勧他令聴経人」として一人で多くの方をお連れして再び総本山に参詣するという、さらなる誓願を立てていただきたいと思います。また「具聴修行人」として、共々に過去・現在・未来の三世にわたる六根清浄の大果報を得て、他の人にもその功徳を及ぼして、私たちの住むこの国土を仏国土にしていくことこそ、正義顕揚の意義であります。
御住職は常々「源を尋ねて足を運ぶことこそ登山の精神」と御指導されております。総本山に参詣しようとする気持ち、仏法の源を求めて精進する行いのすべて、すなわち、登山の啓蒙や準備に費やす時間、労力等には必ず大きな功徳が具わってまいります。そして、この立正安国の志を強く持って、他の人に正しい仏法の信心を勧めていくところには、法華経に説くことのできないほど大きな功徳があるということを確信していただきたいと思うものであります。「立正なくして安国なし」ということが昔からよく言われます。立正ということは安国の根本条件であると共に、私たちは正しい信心によってこそ人間の生命そのものが浄化され、それがひいては世界の平和、繁栄をもたらす要因であることを知らなくてはなりません。皆さんは本日の正義顕揚されたお二人の体験発表を聴いてどのように思われたでありましょうか。正義顕揚とは何時いかなる時、いかなる場所・状況においても、日蓮大聖人様の仏法を信じ行じ、大聖人様の教えを明らかに高らかに宣揚してしていくことであります。折伏とは、つまり正義顕揚であります。日蓮大聖人様は、
  「力あらば一文一句たりともかたらせ給ふべし」(御書668n)
と仰せであります。自らのできる正義顕揚とは何か。結集のための実践とは何か。それは、たった一言でもいいから破折をし、そしてこの仏法のすばらしさを説き、折伏の実を挙げることであります。大聖人様の御生涯は『立正安国論』に始まり、『立正安国論』に終わると言われます。それは正しい教えと間違った教えを、文証・理証・現証の三つによって正しく取捨分別し、その正義を検証して修行していくところに、はじめて本当の成仏の道があるということを、大聖人様の仏法では出発点とし、同時に終着点とするからであります。大聖人様は『立正安国論』に、
  「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(御書250n)
と、自行化他の信心を示されておられます。この意義深い平成21年を迎えた私たちは、この日蓮大聖人様の仏恩報謝のために、一人でも多くの人を折伏し、7万5千の大結集と支部総登山の目標達成を期して、真の立正安国を実現していこうではありませんか。妙光寺支部のますますの発展と、皆様方のいよいよの御多幸と精進を謹んでお祈り申し上げ、御挨拶に代えさせていただく次第でございます。本日の支部総会まことにおめでとうございました。
(平成21年1月18日 妙光寺支部総会において)

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