平成21年7月1日発行 高照山 第259号
建治3年4月初旬 56歳
四信五品抄

 文句の九に云はく「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る。直ちに専ら此の経を持つは即ち上供養なり。事を廃して理を存するは所益弘多なり」と。此の釈に縁と云ふは五度なり。初心の者が兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり。譬へば小船に財を積んで海を渡るに財と倶に没するが如し。「直専持此経」と云ふは一経に亘るに非ず。専ら題目を持ちて余文を雑へず、尚一経の読誦だも許さず、何に況んや五度をや。「廃事存理」と云ふは戒等の事を捨てゝ題目の理を専らにす云云。「所益弘多」とは初心の者が諸行と題目と並べ行ずれば所益全く失ふと云云。(御書1113)

(住職の講義) 
 ただ今拝読いたしました御書は、皆様すでに御存知のように、宗祖日蓮大聖人様の御書のなかでも、特に十大部と申しまして、『唱法華題目抄』『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』『法華取要抄』『撰時抄』『報恩抄』『下山御消息』『本尊問答抄』等の重要な御書がございますが、その十大部の一つである『四信五品抄』の一節でございます。
 この『四信五品抄』は、宗祖日蓮大聖人様が、御年56歳の時に身延においてお書きあそばされ、下総の八幡荘若宮(現在の千葉県市川市中山)に住んでおりました富木常忍に与えられた御書でございます。
 本抄の大意は、富木常忍が御法門について分からないところを、宗祖大聖人様に質問されたことに対する御返事でございます。
 法華経『分別功徳品第十七』のなかに説かれている現在の四信と滅後の五品について明かされまして、一念信解・初随喜が末法の法華経修行の肝要であることを示され、末法における一念信解・初随喜の修行とは、五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と唱えることである。これが我々の成仏の直道であると、御教示されているのでございます。
さて、ただ今拝読いたしました御文におきまして、大聖人様は、まず天台大師の『法華文句』の一文を引用されまして、私ども末法において法華経を信ずる者は、どのように信心修行をすれば良いのかということに付きまして、その根本を御教示くだされているのでございます。『法華文句』の文に「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る」とありますが、この「初心」とは、世間では、お華やお茶や碁ととか将棋とか、その道に入ったばかりの人を初心者と申します。また信仰におきましても、入信したばかりの人を初心(信)者と申しますが、しかし、今ここで初心と申しますのは、そういう意味だけの初心ではないのでございます。末法という現代においては、例えば昨日入信したばかりの人も、5年10年と信心してきた古い人も、末法の衆生であれば皆、初心ということになるのでございます。そもそも、仏の化導は過去遠々劫より続いて現在に至っているのですが、末法の衆生は本未有善の衆生と申しまして、過去世におきまして、全く仏の教えを受けていない、何の修行もしていないのでございます。従って、何ら善根というものを身に付けていない荒凡夫ばかりということでございます。正法時代や像法時代という末法以前の人びとは、すでに過去遠々劫の大昔に下種と申しまして仏の種を植えられております。それを基にいたしまして、権大乗教や法華経迹門の修行をして、それぞれに利益を得たのでございますが、末法の衆生はそういう仏との縁がないままに、何の修行もしないで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という低い境界を輪廻して、今末法という時代に生まれてきた、罪の深い衆生ばかりなのでございます。宗祖日蓮大聖人様は、
 「今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無く、権実の二機悉く失せり」(御書1103n)
と『教行証御書』に仰せの通り、今「初心」と申すのは、このように仏の久遠からの化導のうえで言われていることなのでございます。ですから我々は皆、初心者ということになるのでございます。罪ばかり多く、無智な者ばかりであるというわけなのでございます。 人間世界は昔に比べてみますと、段々と文化が進み、教育程度も高くなり、人智は進んできていると考えるのが常識でございますが、しかし、仏の教えの方から申しますと、実はそうではなくて、発達したのは、つまらない欲望だとか、邪智・邪見・名誉欲・我見・慢心ばかりで、人間は益々悪くなってきている。素直で純真な本性を見失って、仏の教えを正しく信ずることができなくなり、世の中も濁り、人の命も心も濁ってくる。それが五濁悪世(方便品、法華経105n)と申すのでございまして、末法の現在の私共の姿であり、また全世界の姿なのでございます。
 得てして初心の者が、いろいろな難しい修行や学問を縁として行いますと、それに振り回されてしまい、かえって正業という肝心要の行が分からなくなってしまいます。それが一番怖いことだと申されているのでございます。ですから我々初心の者は難しい修行はしなくても、「専ら此の経を持つは即ち上供養なり」、すなわち、専らこの法華経を信じ持つという一つの行だけを修行していくことが、一番良い方法だと申されているのでございます。
 ゆえに、ここに「縁と云ふは五度なり。初心の者が兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり」と仰せになっているのでございます。ここで「五度」というのは、爾前経におきまして、菩薩の位の人が仏に成るための修行として、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの修行が説かれておりますが、これを六度と申します。この六度を立派に修行すれば仏に成れるというのでございます。この六度のうち、最後の智慧を除いた五つの修行を五度と申すのでございますが、この五度も初心の我々には、到底できるような修行ではございません。例えば最初の布施ということについて申しますと、釈尊が尸毘王といわれた修行の時代に、この布施の行をしておりました。そこへ一羽の鳩が鷹に追われて逃げて来まして、尸毘王(釈尊)の懐に隠れてしまいました。尸毘王がこの鳩の命を救おうと庇いましたところ、追いかけて来た鷹が、この尸毘王に向かって言うには「私は今非常にお腹が空いていて、あなたの懐に逃げた鳩を食べなければ飢え死にしてしまう。鳩を助けたとしても鷹の私を見殺しにすれば布施の行にも慈悲にもならないではないですか。鳩を助けるなら私も助けてください」と言われた。そこで進退窮まった尸毘王は、鳩と鷹の両方の命を助けるために自分の体の肉を切り取り、鷹に与えたという話でございます(賢愚経巻第一=大正藏4−351C、御書254n等)。
 また持戒というのも大変厳しい修行でございまして、比丘は二百五十戒、比丘尼は五百戒という沢山の戒律を守らなければならない。これらの一つでも破ってしまえば地獄等に堕ちるのでございます。例えば二人のお坊さんが仏様にお目にかかりたいと望んで、沙漠を旅をしておりましたが、喉が乾ききって、やっと小さな水たまりを見つけました。一人は喜んでその水を飲んで喉を潤しましたが、もう一人の方は持戒堅固な方で、その水を飲めば、そこにいる小さな生き物を殺してしまい、不殺生戒を犯すことになると、遂に水を飲まずに亡くなったのでございます。しかし利天に生じて、先に仏様にお目通りすることができました。片方は水を飲んで命は助かりましたが、不殺生戒を犯したので、仏様にお目にかかったときに、仏様は「お前は私の姿を観ているが、私が説いた戒を守っていない。だから私を見ているといえども、私はお前を見ない」と言われて、現世と来世の両世にわたって痛みを受け、その本願を喪ったということでございます(法句譬喩経護戒品第二=大正蔵4−578A)。
 このように、菩薩は大変厳しい六つの修行(六度、六波羅蜜)を成し遂げねばならないのですが、これは到底、末法の我々初心の者には、できる修行ではありません。それを無理に成し遂げようとすれば、それは、ちょうど小さな船に金銀財宝をいっぱい積んで荒海にを渡ろうとするようなもので、船そのものが沈んでしまい、愚かな結果になるのでございます。そこで、大聖人様は、我々末法の衆生に対しましては、五度は修行しなくてもよいと、最後の智慧の行だけを残されました。この智慧の行も、世間で言うところの物知り、知識等を言うのではなくて、仏法を悟る智慧でございます。しかし、悲しいかな、我々初心の者にはその智慧も充分でないのでございます。
宗祖大聖人様は、
 「大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし」(御書906n)
と仰せになっているのでございまして、小賢しい世間の知恵で仏法を悟るということはできないのであります。すると我々には六度のうちの智慧も充分ではない。それではどうすればよいのかと申しますと、日蓮大聖人様は、このことを『四信五品抄』のなかにおいて、
 「所謂五品の初・二・三品には、仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり」(御書1112n)
と仰せになり、智慧の代わりに信を起こしなさい。これが智慧の基となるのである。「信を以て慧に代う(以信代慧)」の信こそ、末法における唯一つの修行であり、これが正しい行、正業であると申されているのでございます。つまり、御本尊を信ずる絶対の信をもって御本尊に帰依し奉ることが、末法の我々初心の者の正業でございます。そして先ほど拝読しました御文に「直専持此経」(此の経を専ら信じ持つ)とありましたが、「此の経」というのは、「一経に亘るに非ず」法華経一部八巻二十八品全部のことではなくて、「専ら題目を持ちて余文を雑へず、尚一経の読誦だも許さず、何に況んや五度をや」と申されているように、法華経一部の肝要たる南無妙法蓮華経の題目を唱えることが一部読誦に代わるのであり、またこれが智慧の修行に匹敵するのだというのでございます。そして日蓮大聖人様が末法の御本仏として、大慈悲大悲を起こされ、仏の因行果徳のすべてを篭められて、本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされて、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書685n)
と仰せになっているのでございます。ですから我々初心の行者は、この御本尊に向かって、以信代慧の信をもって、唯余念なく「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱え、無量無辺の法華経の功徳を、そっくりそのまま我が身に頂いていけばよいのでございます。これが我々の信心の根本、すなわち末法における正業でございまして、こんなに行じ易く、また素晴らしい信心は他にどこを探してもございません。大聖人様は、
 「信は道の源、功徳の母と云へり」(御書38n)
と『念仏無間地獄抄』のなかに仰せになっております。
 また『法蓮抄』のなかには、
 「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし」(御書814n)
と仰せの通り、本門戒壇の大御本尊様に対し奉り、絶対の以信代慧の信を忘れてはならないのでございます。
 どうか皆様方には、迷うことなく、朝に夕にお題目第一に励み、弛むことなく、自身の幸せと一家の繁栄、社会の平和、そして今眼前に控えている本年度の『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節の記念大法要、7万5千の大結集総会、支部総登山・50万登山という大きな目標に向かって、お題目を力いっぱい唱え続けて、親族・知人・友人を勧誘し、所願を達成して、未来広布に向かって前進されますことを特に皆様方にお願いいたしまして、本日のお話に代えさせていただきます。まことに御苦労さまでございました。
(平成21年6月14日 月例報恩御講において)

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