平成21年8月1日発行 高照山 第260号
建治3年4月初旬 56歳
一生成仏抄(一)

 夫無始の生死を留めて、此の度決定して無上菩提を証せんと思はゞ、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。文理真正の経王なれば文字即実相なり、実相即妙法なり。唯所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく、故に此の経を諸仏の智慧とは云ふなり。一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。但し妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、若し己心の外に法ありと思はゞ全く妙法にあらず、麁法なり。麁法は今経にあらず、今経にあらざれば方便なり、権門なり、方便権門の教ならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫の修行を経て成仏すべき故に、一生成仏叶ひがたし。故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我が一念を指して、妙法蓮華経と名づくるぞと、深く信心を発こすべきなり。都て一代八万の聖教、三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは、ゆめゆめ思ふべからず。然れば仏教を習ふといへども、心性を観ぜざれば全く生死を離るゝ事なきなり。若し心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬へば貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し。然れば天台の釈の中には「若し心を観ぜざれば重罪滅せず」とて、若し心を観ぜざれば、無量の苦行となると判ぜり。故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり。爰を以て止観には「仏教を学すと雖も還って外見に同ず」と釈せり。(御書45)

(講義) 
 この御書は、日蓮大聖人様が、建長7年(西暦1255年)、34歳の時にお書きになられた御書とされ、宛名はありませんが、異称を『与富木書』と言い、対告衆を富木常忍とする説もございます。
 この御書は佐渡以前の御書でございますから、大聖人様の御一代の御化導全体からこれを見てみますと、初期に属するものでございます。すなわち、御本尊様に対する御教示はありません。本抄においては、専ら妙法蓮華経の唱題修行の真理が説かれ、唱題修行こそ一生成仏の直道であることが、ここに示されているわけでございます。
 御承知のごとく、日蓮大聖人様は、この2年前の建長5年4月28日に、清澄寺におきまして、初めて南無妙法蓮華経のお題目を唱えられまして、立宗宣言をあそばされました。この御書をお認めになられた時は、鎌倉の松葉ヶ谷の御草庵に、大聖人様はおいででございます。そうしてお弟子の方々も街頭に出て、活発に折伏弘教をされていた時期でごさいます。皆様方も鎌倉を見学されればお分かりのように、辻説法をされた所だとか、あの当時の大檀那四条金吾邸の跡だとか、いろいろございますが、そういう歴史をよく見ていただければ、この当時の大聖人様のお振る舞い、お姿が偲ばれるはずでございます。
 この御書は、非常に短い御書で、本抄は妙法蓮華経の説明が中心となっております。
 まず本文の最初に「夫無始の生死を留めて、此の度決定して無上菩提を証せんと思はゞ、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり」と仰せになっておられます。最初に妙法五字の当体が明かされているのでございます。ここでは、まず我等衆生が遠い昔からの生死流転の苦しみを留めて、「このたびこそは」と決定し、最高の悟りを得ようとするならば、つまり、成仏しようとするならば、衆生が本来具有しているところの妙理を観ずべきであると、こう仰せになっております。「衆生本有の妙理」とは衆生が先天的に具有しているところの即身成仏の原理でございます。これは取りも直さず妙法蓮華経に外なりません。したがって、この妙法蓮華経を唱えることにより、自分自身が妙法蓮華経の当体であり、自分の命のなかに仏界が存するのだということを自覚することができるということなのでございます。
 その次ぎに「文理真正の経王なれば文字即実相なり、実相即妙法なり。唯所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく、故に此の経を諸仏の智慧とは云ふなり」と仰せになっております。「文理」とは、妙法蓮華経という文によって顕されているところの法理のことでございます。妙法蓮華経は仏界の真実でございます。また一切経の究極の正しい教えが、この妙法蓮華経なのでございます。法華経には「諸法実相」ということが説かれておりますが、皆様が朝夕の勤行に読まれているところの『方便品』には、御存知のように「諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」という十如是がございます。これは簡単に申しますと、十界ならびに森羅万象の諸法が皆悉く実相、すなわち妙法の当体であるということなのでございます。実相とは実なる姿の意味でございまして、すべての存在・現象の真実の、ありのままの姿は、妙法に外ならないということなのでございます。言い換えますと、諸法実相とは、すべての相待的、相待的というのは、互いに対立したり、依存し合ったりしているということでございますが、それと差別的な具象、具象というのは形や内容があって感覚で知り得るものでございますが、それらは、すべて、そのまま絶待的な、対立を超えたところの中道、無差別の真実の姿、真理の現れとしての妙法に外ならないということであります。また、その妙法とは、妙の一心、すなわち妙の命が、一切諸法そのものであるという、一心即総体の原理を顕しておられるのでございます。
 これは皆様御存知の天台大師が『摩訶止観』において説かれました一念三千の法門のことを申し上げているのでございまして、衆生の一念には三千の諸法が具わっていると申します。諸仏の悟りと申しましても、所詮、妙法蓮華経以外に正しいものはないのでございます。ですから、諸法実相の法門が説かれた法華経は、諸仏の甚深の智慧そのものでございます。法華経の文字は、そのまま真実を顕されているわけでございます。
 次ぎに「一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし」と仰せでございます。「一心法界の旨」すなわち、一念三千の法理について、ここでは、さらに説明をされているのでございます。このことを要約いたしますと、全宇宙のありとあらゆる生命活動のすべての事柄は、細大漏らさず、われわれ衆生の一心に収まっているのであり、また逆に、われわれの一念の心が全宇宙の隅々まで通じているということでございます。ここに「十界」とありますのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覺・菩薩・仏の十の境界を申すわけでございまして、瞬間、瞬間の一人ひとりの生命状態のことでございます。「三千」とは十如是と、十界に十界を互具することからその百界を掛け合わせますと千如是となり、それに国土世間、五陰世間、衆生世間の三世間を掛けて三千世間(または三千如是)となるということでございます。つまり、衆生の周囲には、この三千の差別を具しているということなのでございます。また「依正」とは、依報と正報のことでございまして、主体が正報、環境が依報でございます。衆生を正報とすれば、その住する国土世間は依報でございますが、この両者はお互いに深く関わっており、依二不二の関係にあることから依正不二ということを言われております。「色心」とは、色法と心法のことで、色法は肉体とか物質とかの眼に見えるもの、外形的に現れるものをいいます。心法とは心の働き、心の在り方、意識でありまして、この色心の二法も色心不二という関係にあるのでございます。次ぎの「非情草木」の非情とは、有情に対する言葉で、感情のないものを申します。草木はこれに含まれるわけなのでございます。三世間のうちの国土世間は、この非情に当たります。また宇宙のうちでは、依報がこの非情となります。「虚空」とは宇宙の空間、大空であり、「刹土」とは国土でございます。そのほか本文に「いづれも除かず、ちりも残らず」とございますから、全宇宙のありとあらゆる存在と現象というものを、ここに挙げられているわけなのでございます。これらの一切の事象、事柄、事の成り行きが、衆生の一念に収まっており、また、反対に、この「一念の心」が「法界に遍満」して、さまざまな姿、形の「万法」となると、このように仰せになっているのでございます。そして、このような道理を悟ることを「一心法界」と言うわけなのでございます。

 皆さんも御存知の妙楽大師は、中国の唐代において、西暦711年から782年までおられて、天台宗の中興の祖と言われております。俗姓は戚氏、諱は湛然、また荊渓大師とも言われています。この妙楽大師が『摩訶止観輔行伝弘決』(巻第五之三)におきまして、「当に知るべし身土一念三千なり。故に成道の時、此の本理に称ひて一心一念法界に遍し」(大正蔵46ー295C、御書1744・1820)と説かれております。この意味は、衆生の一念の中に十法界の全体、十如是、三世間が本然的に元々具わっているゆえに、成仏の時には、この本然の理に叶って、衆生の身心が法界に遍満し、自由自在の境地を得るということなのでございます。
 私共の立場から申しますと、信心の一念が御本尊様という本理に叶い、南無妙法蓮華経と唱題修行に励むことによりまして、凡夫のその身そのままが即身成仏を遂げることができると、こう仰せになっている意味なのでございます。

 その次ぎに「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、若し己心の外に法ありと思はゞ全く妙法にあらず、麁法なり。麁法は今経にあらず、今経にあらざれば方便なり、権門なり、方便権門の教ならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫の修行を経て成仏すべき故に、一生成仏叶ひがたし。故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我が一念を指して、妙法蓮華経と名づくるぞと、深く信心を発こすべきなり」と仰せになっております。私共の立場で申せば、この御本尊様を受持して妙法を唱えたといたしましても、その信心の心の外に、幸せになる道、つまり成仏の方法があると考えてしまいますと、それはもう妙法蓮華経ではなくなってしまうということでございます。妙法の信心の外に成仏の方法があると考える方は、この御文にある「己心の外に法ありと思う」ことになるわけでございます。それは正法ではない、目の粗い、劣った、粗雑な麁法になってしまいます。ですから、この妙法蓮華経より劣った法で成仏しようなどと考えること自体が、すでに御本尊から離れているということになります。御本尊様に南無している人間が、それ以外に求めるなどということは絶対にあってはならない。皆さん方が病気になったら、一生懸命、お題目を唱えて御本尊様に御祈念をする。御本尊様を自分の中心と拝して、お願いをするのです。その御本尊以外にもう一つあるなどということは、それは邪宗そのものでございます。麁法であれば「今経」すなわち法華経ではなく、この法華経でなければ「方便」となり、「権門」となるわけでございますから、「成仏の直道」では絶対にございません。「多生曠劫」と申しますのは、何度も生まれ変わる長い時間のことでございますが、何時まで修行しても、この爾前権教では永久的に成仏できないのですから、まして一生のうちに成仏することはできないということでございます。それゆえに「妙法と唱へ蓮華と読まん時は」すなわち南無妙法蓮華経と唱題修行する時は、「我が一念」こそ妙法の当体であり、成仏する方法は、この唱題修行より以外にはないのだと、強く強く自分自身に言い聞かせて、深く深くこの信心に励むことが非常に大切だということなのでございます。

 その次ぎに「都て一代八万の聖教、三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは、ゆめゆめ思ふべからず。然れば仏教を習ふといへども、心性を観ぜざれば全く生死を離るゝ事なきなり。若し心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬へば貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し」と仰せになっております。まず、ここから唱題修行の心得が明かされておりまして、釈尊一代五十年間に説かれた八万の聖教というもの、また三世十方の諸仏・菩薩と申しましても、すべて我が心の外にあるとは決して思ってはなりません。仏法は自分の心を離れてはあり得ません。したがって、どれほど仏法を習学したといたしましても、「心性を観ぜざれば」つまり、妙法を唱え、我が身のうえに仏界を涌現し、我が身は妙法の当体なりと信ずることがなければ、生死の苦しみを離れることはできないと仰せなのです。また、どれほどの、万行万善のあらゆる行をやったとしても、(御本尊様を信じてお題目を唱え)自分の心を悟ることの外に成仏の道があると考えてしまうと、何にもならないということなのでございます。その譬えとして、この御文に、貧乏な人が隣の人の財産を計算しても、それは自分が得るものは全くないのと同じであると仰せになっております。心の外に法なく、自分自身、心の中に幸・不幸を決定する鍵というものがあるのだと仰せでございます。皆様方は、御本尊を信じて南無する以上、御本尊と境智冥合して、はじめて自分の命に御本尊様の力が与えられるのでございます。生命力が強くなる。だから一生懸命お題目を唱えていながら“外にどこかに、もう一つよいものがないかな”というのは、それはだめだというのです。唯授一人の御相承の流れた御本尊こそ、大聖人様の御魂であり、我々の依止すべき唯一の正境であります。ですから、それ以外に求めようとしても、それはあり得ないことでございます。

 そして次ぎに「然れば天台の釈の中には『若し心を観ぜざれば重罪滅せず』とて、若し心を観ぜざれば、無量の苦行となると判ぜり。故にかくの如きの人をば
仏法を学して外道となると恥しめられたり。爰を以て止観には『仏教を学すと雖も還って外見に同ず』と釈せり」と仰せになっております。妙楽大師が天台大師の『摩訶止観』を注釈された『摩訶止観輔行弘決伝』(巻第四之二)におきまして、「自分の心の中の妙法を観じられなければ重罪が滅することはない」(大正蔵46−258C取意)という意味のことを説いております。それゆえに、自分の心の妙法を観じない人、つまり御本尊に向かってお題目を唱えない人は、仏法を学びながら外道となると言われ、恥ずかしいこととされているのでございます。このことを天台大師は『摩訶止観』(巻第十上)に「仏教を学んで外道と成る」(大正蔵46ー132B)と言われております。
 何といたしましても、この唱題行を忘れてはなりません。例えば、自分が体調を壊したり、何か大きな難にぶつかったり、そういう時には、一生懸命お題目を唱える。御本尊様にお願いをする。ところが、病気なんか治ってしまったら、自分だけで治ったような、御本尊様から生命力を頂いて、そのお陰で治ったことなどを忘れてしまって、もうお題目も唱えていない、お寺にも来なくなってしまう。そういう人がおります。これは御本尊を蔑ろにしている証拠です。皆さん方には、そういう人はいないと思いますけれども、どこで魔に誑かされるかも分からない。ですから油断なく、朝晩しっかり勤行唱題して、自身の生命力を旺盛にして、自分の命のなかに魔が入って来られないように、そういう生命力を持って毎日を過ごさなければいけないということでございます。朝晩の勤行ということは非常に大切なことでございます。持続するということが大事ですから、お題目をしっかり唱えて、自分の生命力を旺盛にして、そして大聖人様の御本尊のお力を借りて、人を教化し折伏をする。そうすれば、相手の方は、その人の心に打たれ、必ず折伏はできると思います。どうか、どこまでもお題目を唱え、一生成仏をしていく、これが非常に大事なことでございます。どうぞよろしくお願いいたします。御苦労様でした。
(平成21年7月12日 月例報恩御講において)

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