平成21年8月1日発行 高照山 第260号

京橋教会所について


 妙光寺歴代墓地に建てられた日奘゙上人(富士本智境師)墓石の裏面に、宏智日仁(妙光寺第2代住職有元廣賀)師が書かれた文があり、そのなかに「師是先に明治二十七年信徒有志と勝地を卜し、以て一寺を建て、師範日布上人を仰いで中興開基、而して躬自ら当寺初代と為す」ということが刻まれている。
 富士本智境師は、明治24年8月まで、東京向島小梅常泉寺の住職をなされていたが、その職を辞された直後、同年9月2日に、京橋南八丁堀2丁目9番地に教会所を設立し、同教会所の担任教師となられた(法王44号28)。
 この2年ほど前には、すでに武蔵国蛇窪村大本山出張所において、秋元道順師(後に三ツ木妙光寺に在勤し、土浦教会所〔現本妙寺〕担任教師となられた)が止宿として居られた(布教会報4号46、明治22年12月13発行)。

捨 邪 帰 正
 京橋教会所の設立に至る経緯は、『布教会報』14号25(明治23年10月13日発行)に「堅樹日好の流を汲み仏前に於て四ヶの格言を唱へ異流と称せられつゝありし信徒にして、東京市南八丁堀二丁目九番地松井里氏外二十余名並に京橋区日比谷町壱番地石川勝造氏外二十余名は、何れも強盛に彼の四ヶの格言の流を信じて容易に動くの色も見へざりしが、一朝蓮祖大聖人の本懐正統興門の法義を聴聞し、豁然宿昔の頑妄を氷解することを得て、永く其罪を懺悔し本宗の信者となられたり、石川氏外二十余名は東京常泉寺常在寺の檀越となられしと、因みに記す右松井氏等、這回(このたび)捨邪帰正せらるゝに就ては本会々員安藤庄藏氏、周旋奔走与って力ありと、至慶至祝、編者筆を執るも勇まし」とある。
 富士本智境師も、もとは異流義堅樹日好門流の僧であられた。ところが明治6年(1873)6月20日、日好門流の京都洛北雙林寺において、師匠の臨導日報が三悪道を現じた末、病死した。これに疑問を抱いた弟子の佐野好堅尼と富士本(本姓河野)智境坊は、日霑上人の『叱狗抄』を拝見して、懺悔帰正を誓い、明治7年6月21日、智境坊は日布上人の御弟子に加えて頂くべく、富士大石寺に向かわれた。明治8年6月8日、佐野好堅(広謙)尼は日霑上人の御弟子となられたのである(妙寿日成貴尼全伝11〜21)。 そんな縁故からも、京橋在住の日好門流の信者に対して捨邪帰正が計られたのであろう。

京 橋 本 因 妙 講
 蛇窪庵室の開基で、京橋講頭、大石寺布教会本部幹事の松嶋覺道は京橋弓町に住んでいたが、明治23年12月30日長逝し、法号を信壽院原道日弘信士と称した。享年68歳。法名は後に居士に改め追贈された(布教会報19号33、松島晃靖家過去帳)。松嶋覺道は、亡くなる日の朝「われけふみまかりならんとおもへばきのふまでゆめぢうきよにあそべども けふぞうつつにかへらんとおもふ」と辞世の歌を残した。この辞世歌碑の裏面に「明治廿三年十二月丗日寂 信壽院原道日弘居士 発願主松嶋覺道事 明治廿五年一月吉辰 造立志主松嶋庄藏」とあり、最初は覺道が蛇窪庵室の発願主であることから蛇窪に建てられ、後、妙光寺本堂脇から三師塔脇へと移されている。
 明治24年2月15日、富士本阿日奘師より、本因妙講松嶋庄藏は京橋本因妙講組長に任ぜられた(松嶋晃靖氏蔵辞令)。この組は明治25年7月4日、本山56世日應上人より、京橋本因妙講起信組と称することを免許された(松嶋晃靖氏蔵辞令)。
明治24年4月17日、大本山貫主日應上人より、松島庄藏は京橋本因妙講講頭を申し付けられた(布教会報21号37、松嶋晃靖氏蔵辞令)。また京橋本因妙講に浄心組ができ、「東京京橋南八丁堀二丁目の教会所に於て富士本智境氏が布教に尽力せらるゝ事は曾て本報前号に記載せしが、近頃倍す、進んで本宗の法旗を翻へすと共に追々帰入する者あり、就中同教会員小牧銀次郎氏は若干の信徒を教化し、這回貫主上人の御出京を幸ひ講名を願ひ出られたれば、速に京橋区本因妙講浄心組を命名相成りしと」(布教会報28号28、明治24年12月13日発行)と報ぜられている。

京 橋 教 会 所 の 設 立
 後に京橋教会所として自己の家屋を寄附した松井さとは、夫の松井敬之進(法名樂法院敬信居士)菩提のため、本山の千居原開墾費として金500円を寄附し、本山五十六嗣法日應上人より、明治24年4月30日に、御本尊を授与された(布教会報21号37)。
 京橋教会所の設立が認可された経緯については「教会所設立 東京市京橋区南八丁堀二丁目九番地松井さと氏は、嚮きに日好が異流を捨て去りて本宗に帰入し、爾来信心益す強盛に、而かも大法外護の志し深く、此の頃居住せる家屋建物を寄附して本宗の教会所となし、尚ほ此教会所設立につき松島庄藏氏・平岡長吉氏・袴田作次郎氏・鈴木筆次郎氏老母(鈴木ユキ)等の人々尽力周旋し、且つ夫々浄財若干を喜捨して之を助け、こゝに於て亦た大ひに法鼓を鳴らし、以て益す布教拡張せんとて、右教会所設立の義を本山へ申出られたり、貫主上人にも深く松井氏并に諸氏の深志を感賞せられ、直ちに之を許可し、猶を之れが事業を助くる為め若干金を下附相成りたり、嗚呼松井氏の如きは深信の善女人と申すべし」(布教会報25号32、明治24年9月13日発行)とある。
 明治24年9月8日、日應上人御書写の板御本尊(御丈2尺以上)が京橋教会所に安置された(妙光寺百年史257n)。
 京橋教会所の開所式の模様は「東京通信 東京市京橋区南八丁堀二丁目九番地に教会所を設立に相成りし由は前々号に記載せしが、(明治24年)十月十四日該教会所開場の盛典を挙行せられたり、其模様を記さんに同日午後一時より読経唱題等如法の式あり、続て法話あり、前座は富士本智境氏にて義浄房抄に依て末法には折伏の必要なることを述べ、後座は板倉日盛上人にて撰時抄に基て教法流布の前後を演べ給ひ、午後六時より演説開会(開会の旨意)富士本氏(花より団子)島田辨吉氏(閻浮の宝珠)松島庄藏氏(貰ひ物の説)船橋六友氏(日蓮宗の真面目)富士本氏(三根の益不益)(法仏の勝劣)板倉上人にて、参聴者は吾が信者の人の外に他門の人々もありて場外に充満し、最も殊勝なる開場の式にてありしと、猶ほ該教会所に於て毎月土曜日并に御三師御逮夜を例会として、午後六時より受持教師富士本氏は法話を執行し、専ら弘法に勉められ、追々本宗を渇仰帰依の人増加するよし、法のため祝すべきことにこそ」(布教会報27号23 明治24年11月13日発行)ということである。

富士本師、清水梁山の弟子と問答
 『布教会報』の28号19・29号23・30号25・31号18(明治24年12月13日〜明治25年10月20日発行)に、「方便寿量読不読論 論者 富士本日奘 問答略記 筆者 松島庄藏」と題する文が連載されている。その概要は、もと日蓮宗一致派の清水梁山の弟子、長瀧泰昇という僧が、神田区の堅樹日好門流の信徒、小林・金子等を自門に入れようとした。小林・金子の両氏は、日好門流の四箇格言の口誦をやめて、清水梁山流の題目以外には唱えないという修行にするか、それとも方便寿量の読誦をする大石寺の方にするか、その進退にきわまり、かつて同じ堅樹日好門流の信徒であり、今は本宗に帰依してした同区内の高久智吉と数番の問答をし、清水梁山の七ヶ条の問難書を送った。その難問書を送られた高久智吉は、自分を教化してくれた嶋山辨吉にそのことを話すと、嶋山は「恐るるに足らず、雌雄を決しよう」と、明治24年10月14日の早朝、京橋八丁堀の教会所に来て、富士本日奘師に事の次第を話した。同日の朝、京橋教会所に長瀧泰昇がやって来たので、富士本師は、彼と午前7時頃から午後6時過ぎまで、延々と問答をされたのである。兼ねてから彼の清水梁山の一派では『御義口伝』の「但(南無妙法蓮華経と唱える)受持の一行にして成仏すべし」(御書1795)の御文等に固執して、方便・寿量の両品を読誦するのは宗祖の御本意でない、これは、脱益の行であると主張していた。これに対し、富士本師は、成仏は妙法蓮華経の五字七字に限るというのは法体段のことで、修行段においては、宗祖も常日頃、方便・寿量の読誦を勧めておられる(月水御書=御書303、曾谷入道殿御返事=御書794)。また宗祖の御入滅の際には、方便品を読誦し、寿量品読誦の半ばで御帰寂あそばされたという(註画讃巻五、日蓮聖人年譜)ではないかと示された。長瀧泰昇は、久しく黙して顔面が土色になり、口が鼻のようであった。問答はここに至って終わり、嶋山辨吉・岩瀬藤九郎等が、長瀧泰昇に向かって帰入転宗を促したが、その場では決心が付かなかったようである。

常 泉 寺 離 檀 の 経 緯
京橋・蛇窪・三ツ木・中延・戸越等の信徒が常泉寺を離檀した経緯については「去る明治二十四年八月中、富士本氏は東京向島小梅常泉寺を辞職し、同年九月二日京橋南八丁堀二丁目九番地に教会所を設立し、新帰入の信徒を教導し、期日を定めて演説法話を開き、又余暇には有志の信男信女を集め説教せられしに、二十五年の春に至り常泉寺後住撰挙の議起り、同寺世話人後住人撰の投票すべき廻文に接し、京橋新檀の者等六十余名は住職の人撰は在俗の妾りに喙を容るべき所にあらず、若し投票等をもって之を撰挙するときは依怙の沙汰起りて甲の是とする所乙之を非と為すときは、勢ひ甲乙の軋轢を生じ寺檀相合はず、為に檀徒分裂するの憂ひあるを以って、宜しく本山の指揮を仰ぎ指名を受くるに如かずとの説を取りしに蛇窪、三ッ木、中延、戸越の信徒惣代の者も亦た同意見にて之れに賛成せり、時に誰やらん言を為して云く、常泉寺檀中帳に氏名なきものは此の議に参与すべきにあらず杯と、又或は新檀は檀中と見做し難しと、是に依て新檀一同退き其檀中と見做されざる者及び三ッ木、中延、戸越等の講中は悉く常泉寺を離檀し本山直檀となれり、而して法用等は京橋教会所富士本に依頼す」(法王44号28、明治26年5月20日発行)とある。

品川三ツ木に妙光寺建立の経緯
 京橋教会所(正式名称は日蓮宗興門大石寺教会所、京橋南八丁堀2丁目9番地)は、明治24年10月2日に東京府知事より設立許可を得ていたが、約半年後の明治25年3月28日、京橋区新富町1丁目9番地に移転したことが、担任教師富士本智境師より東京府知事宛に届けられた(妙光寺百年史171)。
 品川三ツ木の地に妙光寺が建立されるに至った経緯について、明治26年(1951)5月20日発行の『法王』には、「時に富士本は同年(明治25年)五月二十八日蛇窪春期御講に招待せられ、参詣の途中品川町を経て三ッ木百段と云ふ所に至りしに、其風景の勝云ふ可からず、依って富士本氏は其同伴せし松嶋庄藏に語って言く、此地山水勝美の所なり、茲に一寺を創せば水害火災の患なく、殊に衛生に宜しく、市街に近く、実に法陣を張るの地に適すと、松嶋云く此の山に信徒谷岸庄兵衛の所有地あり、請ふ試に往て之を一見せんと、仍ち行て之を見るに一反余の平坦の地あり、此時全く望を茲に止めて蛇窪に至り御講説法の後、講頭金子仲次郎を始め一同に相談せしに皆挙って之を賛成せり、然れども谷岸庄兵衛が果して彼の地所を売却するや否やを聞かん為、翌日谷岸の宅を訪ひ談ずるに此事を以って談ぜしかば谷岸喜ぶ事甚しく、且つ云く此の地は拙者若年の時購ひ置きたるの地にして老後閑室を建てんと欲し、松等の雑木を殖え置きたり、今幸ひに師等の眼に触れ浄刹建立の所とならんとす、吾身の欣喜之に如かず、依って願くは、之を寄附せんとの挨拶に富士本氏等其懇志に感じ、且つ喜び且つ祝し終に茲に新寺を建立する事となれり」(法王44号29)と記されている。
 京橋教会所担任教師の富士本日奘(智境)師は、信徒惣代の松嶋庄藏を伴って、蛇窪教会所に向かうため、
当時は、まだ現在のJR山手線の大崎駅(明治34年2月開業)はなかったので、品川駅で下車し、途中、品川町を経て「三ツ木百段と云ふ所に至りしに、其風景の勝云ふ可からず」とあるが、明治前期の地図を見ると、現在のJR大崎駅付近の鉄道線路の両脇に、百反という地名の田んぼがあり、現在も大崎・戸越の方面から山手線の線路に向かう坂道に百反坂という名が付けられている。この坂は元は階段になっていたので、百段坂と呼ばれていたが訛って百反となったという説もあるが、現在の妙光寺の北西300ほど離れた所にある。品川町から蛇窪に至る途次の百反は坂下の低湿地帯に当たっており、風景の勝地であったとは考えられない。第一、三ツ木のうちに百段という所はない。
 谷岸庄兵衛が所有していた山林は、三ツ木のうちの山崎と呼ばれていた所にあって、現在の妙光寺正面階段下の道路を造る工事の時に、地中から貝殻が多数出たということであるから、山崎という地名の通り、そこは眼下に東京湾を見晴らす台地の突端に位置して、眺望絶佳の地であった。
 恐らく、富士本智境師は、蛇窪教会所に居られた木戸道諦師や、蛇窪の信徒惣代や、京橋の信徒惣代松嶋庄藏等からも、新寺院の建立は三ツ木山崎の谷岸庄兵衛の山が良いのではないかという意見に一致しているという報告を聴かれており、それでは実際に、その場所を見てみようと思われたのであろう。そこで、同伴した松嶋庄藏が、三ツ木の隣村、戸越村の安藤竹次郎の子息として生まれ育っており、三ツ木の地理にも明るかったので、三ツ木山崎の台地を案内させ、実地検分のうえ、ここに決めようと決意された結果、蛇窪教会所の担任教師でもあられた富士本智境師は、改めて明治25年5月28日、蛇窪教会所の春期御講の後、同地の信徒惣代金子仲次郎達にも相談して、正式に意志決定をされたのではないかと思われる。
 蛇窪の森谷源兵衛(昭和40年1月26日寂、享年92歳)から、直接、昭和36年10月15日午後5時ごろに伺った話では、明治25年ごろ、京橋の松嶋庄藏・小牧銀次郎の両名がちょくちょく蛇窪の庵室を訪れていた。松嶋覺道(庄藏の義父)は兼ねてから寺院建立の志を抱いており、森谷彦次郎(源兵衛の父)の家の前にある一反歩ほどの空き地をその敷地に充てる積もりであった。そして、ある日、松嶋庄藏と小牧銀次郎嘯ェ連れ立って、蛇窪の森谷彦次郎宅を訪れた。寺院建立の相談に見えたのである。そこで当時、19歳の源兵衛が使い走りとなって、近くに住む信徒惣代の金子半太郎・高橋紋吉を呼び、庵室からは木戸道諦師を招いた。そして僧俗6人が鳩首協議をした。そのとき、木戸道諦師がおっしゃるには「寺院を建立するには、よろしく仏法の通例に任せ、高い所に建立すべきである。低い平地ではいけない」との御意見を出された。そこで一同、蛇窪に末寺を建てることを断念した。それでは、どこかよい所はないかと考えたあげく、「三ツ木の谷岸庄兵衛の山がよいではないか」ということに衆議一決した。(この協議の席には蛇窪講頭で蛇窪教会所信徒惣代の筆頭、金子仲次郎は出席していないが、他に所用でもあったのであろうか)。ともかくも、松嶋・小牧・森谷・金子・高橋の5人が谷岸庄兵衛宅に赴いて、相談を持ちかけた。すると庄兵衛は一同の話を聴いて、即座に「自分の山をお寺の敷地として寄進しましょう」と快く申し出た、ということである。
 金子仲次郎は、かつて京橋の松嶋覺道の許で質屋の業務を修得したほどの親密な関係にあった。
 明治9年、当時24歳で中延村講頭となった鏑木元治郎(昭和10年1月17日寂、法持院清源日遠居士、行年83歳)も、幼少のころ母を亡くし、松嶋覺道の教化によって池上本門寺末法蓮寺檀徒から入信した。
 明治26年の初めに、仲次郎の娘金子かん(賀舞、当時18歳)は、真摯な疑問を宗門の機関誌『法王』に提起した。すると、覺道の養子松嶋庄藏(旧姓安藤、当時29歳)は、直ちに、敢えて説明する文を書き、それがまた誌上に掲載された(法王41〜42号、明治26年2〜3月発行)。当時の発行人兼編輯人であられた土屋慈観師(日柱上人)は、両者の寄稿をそのまま掲載して、寛大かつ公平な措置を取っておられる。
 京橋教会所は品川三ツ木の地に妙光寺が建立されるのに伴って、明治26年4月19日限りで閉会することになり、以後、同所の信徒の大半は、品川妙光寺に所属することとなった(妙光寺百年史178)。
 さらにその後、元京橋講中の平澤家・岩瀬家等は向島常泉寺の所属信徒として活躍し、袴田家・小牧家等は妙光寺檀徒のまま、法道会(現在の法道院)の信徒となって現在に至っている。(編集室 記)

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