平成21年9月1日発行 高照山 第261号
建治3年4月初旬 56歳
一生成仏抄(二)

 然る間仏の名を唱へ、経巻をよみ、華を散らし、香をひねるまでも、皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり。之に依って浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば、衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明かせり。又衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此くの如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。
 抑妙とは何と云ふ心ぞや。只我が一念の心不思議なる処を妙とは云ふなり。不思議とは心も及ばず語も及ばずと云ふ事なり。然ればすなはち起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば色も質もなし。又無しと云はんとすれば様々に心起こる。有と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして、而も有無に遍して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり。此の妙なる心を名づけて法とも云ふなり。此の法門の不思議をあらはすに、譬へを事法にかたどりて蓮華と名づく。一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云ふなり。然ればすなはち、善悪に付いて起こり起こる処の念心の当体を指して、是妙法の体と説き宣べたる経王なれば、成仏の直道とは云ふなり。此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑ひあるべからず。故に経文には「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」とのべ給へり。努々不審をなすべからず。穴賢穴賢。一生成仏の信心。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。日蓮花押。(御書46)


(講義) 
 皆様方、どうも暑いところを御苦労様でございます。今月の御講は、先月に引き続きまして『一生成仏抄』の2回目でありまして、まず拝読させていただきます。
 本日の本文の最初のところでございますが、「然る間仏の名を唱へ、経巻をよみ、華を散らし、香をひねるまでも、皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり。之に依って浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば、衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明かせり」とございます。
我が一念は妙法蓮華経でありますから、仏の御名を唱え、お経を読むのはもちろん、散華・焼香することまでも、皆自分の心に納まるところの功徳・善根となるということを信ずべきであります。
 したがいまして『浄名経』(維摩詰経巻上「諸法言品第五」)には「問う、如来の解脱は当に何に求むべきか。答えて曰く、当に衆人の意行の中に求むべし。○生死は則ち菩薩の養なり」(大正蔵14−525C)と説かれておりまして、まさに、ここに衆生即菩提、生死即涅槃ということが明かにされているのでございます。
 その次ぎに、「又衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此くの如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し」。と仰せになっております。ここでは心が如何に大切かということを御教示されているのでございます。見方を変えてみますと、依正不二の原理を示されているということが言えるのでございます。
 つまり、われわれ衆生の心が清ければ、そこに生活する土も清くなる。浄土とするか、穢土とするかは、それは住んでいる、我々衆生の心の一念で決まるというわけでございます。衆生、つまり凡夫といいましても、あるいはまた、仏と申しましても、同じ人間でございましても、命は一つでございます。ですから、迷うときには凡夫であり、悟るときには仏となるわけでございます。このことは、ここに譬えとして挙げられておりますように、曇っている鏡も磨けば明鏡となるのでございます。昔の鏡は銅製でございましたので、常に磨いて磨いて、そうしておかないと、すぐに写りが悪くなってしまったのでございます。
 私共も、もともと仏界を具えているところの妙法の当体なのでございますけれども、絶え間なく唱題し、自分の生命を磨かないと、仏界を涌現することはできないというわけでございます。今、私共凡夫の迷いの一念は、ちょうど磨かない鏡のようなものであるということでございます。
 「是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」。これを磨けば、必ず法性真如の明鏡となると仰せでございます。この法性真如の明鏡と申しますのは、磨かれた鏡が、ものを写しやすくするように、正しいものの見方ができるということでございます。また豊かな智慧で自在に生きることができる仏の悟りの境界をいうのでございます。法性も真如も共に一切衆生が本然と具えている真実自然の実相のことでありまして、これは妙法蓮華経のことでありますから、法性真如の妙法とは事実のうえに妙法の当体として現れるということと同じであります。このためには深く信心を奮い起こして、昼も夜も自分自身の心を磨かなければなりません。では、どのようにして磨くのかと申しますと、これはもう言うまでもない、御本尊様の前に端座して、南無妙法蓮華経と唱えていく以外には方法はないということでございます。日夜朝暮とありますから、朝晩共に欠かさずに勤行唱題に励むことが非常に大切だということでございます。いずれか一方だけというのでは正しくはございません。

 そうして、その次ぎに「抑妙とは何と云ふ心ぞや。只我が一念の心不思議なる処を妙とは云ふなり。不思議とは心も及ばず語も及ばずと云ふ事なり」とございます。この前のところまででは、いわば妙法五字の体の行について仰せでございましたが、ここからは妙法五字の意味について触れられておられます。そもそも妙とはどういう意味であるかと言えば、我々の一念の心が不思議なる状態を妙と言うのであると、このように仰せになっております。不思議ということは、心、つまり理性といってよいと思いますが、この理性では我々の心のすべてを推し量ることはできませんし、また通常の言語で我々の心を記述することも、また不可能なのでございます。このような実に不思議なる存在である、我々の心こそ妙というべきであるとお示しでございます。
それについて、もう少し詳しく御説明くださったのが次の御文に当たるわけでございます。
 「然ればすなはち起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば色も質もなし。又無しと云はんとすれば様々に心起こる。有と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして、而も有無に遍して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり」。とこのように仰せになっている箇所でございます。この箇所は、かなり難しいわけで、これを易しく御説明申し上げるということは非常に難しいことでございますが、今の瞬間瞬間にも私達の心には怒ったり、また喜んだり、悲しんだり、実にさまざまな思いが去来いたします。一つの心理状態が現れては消え、また別のものへと移行して止まるところを知らないのが、我々の心でございます。ところが心それ自体は形としてはないのでございます。そして色もない。私の心は赤いとか、また私の心は青いなどとは絶対に言えないのでございます。また私の心は丸いとか、私の心は三角などということも言えないわけでございます。そう言ったところで、それは心そのものではなくして、心の言わばイメージに過ぎないということであります。それでは心はないのかと言えば、さまざまな思いが実際に起こるわけでございます。
 皆様方も瞬間瞬間に、それを起こしているわけでございます。だからと言って、具体的に「これが心です」と、取り出して示すわけにもいかないのございます。有とも無とも、そのいずれでも言葉だけで心の存在を言い尽くすことは絶対にできないのでござます。
 また有か無かのいずれか一方だけで、心の存在を理解することは不可能であります。有でも無でもなく、しかも現実に精神作用があるのでございますから、物質的、形態的には無でありますが、絶対的な実在であって、通常の論理的思考では考え量ることはできないのであります。また日常的な言語で記述をしようとしてもできない。したがって、これを中道一実の妙体と言いまして、不思議なものですから妙と名付けるのでございます。これが一念の心であり、私達の一念は妙としか言いようがないといことなのでございます。
 また心といい、仏といい、衆生といいましても、その三者は共に妙なのでございます。
 『華厳経』(大方広仏華厳経巻第十「夜摩天宮菩薩説偈品第十六」)のなかには「心と仏及び衆生は、是の三つ差別無し」(大正蔵9ー463C)と説かれておりまして、心ならびに悟った仏と迷っている九界の衆生は、もともとは心によりまして、仏も衆生も作られるのでございますから、いかなる差別もないという意味でございます。
 ただし、それには染浄の二法があります。大聖人様は『当体義抄』におきまして「法性の妙理に染浄の二法有り。染法は薫じて迷ひと成り、浄法は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。此の迷悟の二法、二なりと雖も然も法性真如の一理なり」(御書692n)と、このように明解に御教示をされているのでございます。
 その次ぎに「此の妙なる心を名づけて法とも云ふなり。此の法門の不思議をあらはすに、譬へを事法にかたどりて蓮華と名づく。一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云ふなり」と仰せになっております。このように妙であるところの心、仏性そのものには、さまざまな作用、現象が含まれております。したがって、それを名付けて法、つまり事実として存在するものと称するのでございます。さらに、その言語を絶した不思議な法門をあらわすために、事法、つまり具体的に現象や事柄として存在するところのもの、草木の蓮華を取りまして、よく妙法を譬えるのものとして、この妙法を具象化して、蓮華と名づけているわけなのでございます。こうして、我々のある一念の心が妙であると解れば、また次ぎの心も、その次ぎの心も、同様に妙法に他ならないと知ることを妙経と言うのだと仰せなのでございます。
 要するに不思議なる我が心を、まず妙であるということを知ることが肝要であるということでございます。そうしますと、皆様よく御存知の、大聖人様が『法華経題目抄』に仰せの「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書360n)ということに直結するわけございます。自分の心を妙と知り、そして御本尊様に我々は境智冥合して、悩み苦しみは、そのまま楽しみ、悟りに転じていくことができるというのでございます。
すなわち、どんなに苦しいときでも、楽しいときでも、南無妙法蓮華経と唱える以外には我が心を正しく導いていくことは絶対にできないということであります。
 そしてその次ぎに「然ればすなはち、善悪に付いて起こり起こる処の念心の当体を指して、是妙法の体と説き宣べたる経王なれば、成仏の直道とは云ふなり。此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑ひあるべからず」と仰せになっております。ですから私共の心には、極めて善い思いも、また非常に悪い思いも、実にさまざまな感情が起こってまいります。しかしながら、そのような種々雑多な一念一念の総体が、そのまま妙法の当体でもあるわけであります。それが法華経に説かれた諸法実相の法門であるわけでございます。
 中国の天台大師は、迹化の菩薩として、法華経の極理は一念三千の法門にあるとして『摩訶止観』に、それを説かれました。八万法蔵とも言われる釈尊一代の膨大な聖教も、その究極は法華経に極まるわけでございまして、成仏の直道とは法華経に他ならないわけでございます。しかし、もちろん現在は末法でありますから、天台大師の観念観法を修することは正しくありません。私達にとっては、日蓮大聖人様の御当体である事の一念三千の御本尊様を拝して、唱題していくことが成仏の直道なのでございます。
 どのような一念の心を持っていようとも、我が身が妙法の当体であると信じ、ひたすら御本尊様に唱題しきっていくならば、一生のうちに成仏できることは絶対に疑いないんだと、日蓮大聖人様が断言してくださっているわけでございます。

そして「故に経文には『我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん』とのべ給へり。努々不審をなすべからず。穴賢穴賢。一生成仏の信心。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と結ばれております。ここのところのお経文は、法華経『如来神力品第二十一』の最後の御文(法華経517n)でございます。その意味は「我(釈尊)が入滅した後において、まさにこの経(法華経)を受持すべきである。このような人は仏道が決定して、必ず成仏することができるのである」と説かれているのであります。このことは、末法においては斯の経、すなわち法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を受持し信行すれば、成仏は疑いないのであるということでございます。そうして最後に大聖人様は、重ねて、妙法を受持していけば、必ず一生のうちに成仏できるということを決して疑ってはならないということを強く述べられまして、この御書を結ばれているわけでございます。
 私共は、いかなるときでも、どんなに苦しいときでも、嬉しいときでも、御本尊様に向かって、苦楽ともに思い合わせて、南無妙法蓮華経と唱えて修行していくことによりまして、一生成仏疑いないということでございます。以上で、この『一生成仏抄』の講義は終わりにいたします。
 先般の7.26の大結集総会、皆様方の本当に御尽力によりまして、目標を達成できました。この席をお借りいたしまして皆様に厚く御礼申し上げます。まことにありがとうございました。どうか、今後はあと後半、何をすべきか。これはもう皆様方お分かりだと思います。本年中、支部総登山の目標を完遂すること。また、もう一つは、お正月に立てた折伏誓願目標を達成することでございます。この二つを達成して、はじめて今年は大勝利を得たということになると思います。どうか7万5千の結集が終わったから、もうこれでいいんだと思わないで、まだ後半は支部総登山と折伏が残っている。12月31日、除夜の鐘が鳴るまで、達成を期して精進するのだという、強い心構えで後半を進んでいただきたいと思います。
 過日の大結集総会において、御法主日如上人猊下は「宗門は、本年から数えて十二年後の平成三十三年に『宗祖日蓮大聖人御誕生八百年』を迎えます。そして、その中間に当たる六年後の平成二十七年には『第二祖日興上人の御誕生七百七十年』を迎えます。そのうち、まず日興上人の御誕生七百七十年の平成二十七年までに、全国のすべての法華講支部は、現在の講員数の五十パーセント増を目指して、折伏実践の確実な歩みをもって仏祖三宝尊に御報恩謝徳申し上げていくことが肝要であります。さらにその先、この確実な成果の上に立って、さらに折伏を重ね、平成三十三年、宗祖日蓮大聖人御誕生八百年までには、御誕生八百年にちなんで、法華講員八十万人の体勢を築き、大法広布に資していきたいと思います」(大白法770号2面)との御指南をなされました。私共は、一人も弛ゆむことなく、今回、猊下が御指南あそばされた目標の達成に向かって、毎年毎年、精進していくことが、御法主上人猊下にお応えする所以だと思います。どうか皆様方は、生涯お題目を唱え、そして化他行に邁進していくことによって、一生成仏ができるのですから、これで終わりだということではなくて、どこまでもお題目を唱え、我々は前に向かって進まなければいけない。後退はあり得ないと思います。ぜひ、自分自身のために、また親族の子供や孫や曽孫のためにも、しっかりと、まず自分自身が唱題し修行し進んでいってください。そうすれば、みんなに向かっての明るい光が覗いてくると思います。どうか深く信心を起こして怠ることなく、朝晩しっかり勤行し御祈念して、折伏に前進されますよう特にお願いいたしまして、今月のお講の終わりとさせていただきます。まことに御苦労様でした。
(平成21年8月9日 月例報恩御講において)

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