平成21年9月1日発行 高照山 第261号
昭和23年11月12日 新築の客殿にて
                 柿沼 広澄(妙光寺第六代 大東院日明贈上人 遺稿)

富 士 門 流 の 精 神
( 御 大 会 の 説 法 )

(自行化他に亘る)
 明日厳修せられます御大会の御逮夜に当たりまして、私は「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異り、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594)という御金言を此処に再吟味し、以て信心をみがきたいと思うものであります。
(自己の為のみならば念仏門徒と五十歩百歩)
 何故此の再吟味を必要と致しますかと申しますならば、唯単なる自分の為のみの御題目であり、家内安全と子孫繁栄を願うのみの御題目でありましたならば、即ち自己の欲望のみに唱ふる御題目でありましたならば、念仏門徒の南無阿弥陀仏、真言宗徒の南無遍照金剛と大同小異、五十歩百歩なのであります。
(一生は折伏逆化の申し子)
 日蓮大聖人の御生涯は建長五年四月二十八日の朝より弘安五年十月十三日の夕に至る三十一年の御生涯、折伏逆化の四字につき、その唱ふるところの題目は自行化他に亘っての南無妙法蓮華経でありました。併して私共も「「日蓮さきがけ(魁)したり、わたうども(和党共)つづけよかし」(御書1057取意)と、前進命令の下ったその御題目を唱へておるのだといふことを忘れてはなりません。
(弘長元年五月十二日 伊東)
 伊豆の伊東に流されては「法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ」(御書266)といはれて、その流罪の事を「両眼より涙を流すこと雨の如し」(御書269)と大歓喜せられ、
(文永元年十一月十一日 小松原)
 小松原にあっては「申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられて候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人……自身もきられ、打たれ」(御書326)ても、唱えられたる此の南無妙法蓮華経を、
(文永八年九月十二日 竜口)
 或は又「経文の如くんば彼の国より此の国を責めんこと必定なり。而るに日本国中、日蓮一人彼の西戎を調伏すべきの人に当たり、兼ねて之れを知り論文に之を勘」(御書370)へたる、即ち『立正安国論』の故に、文永八年九月十二日の竜の口の首の座に坐はられては「今夜頚切られへまかるなり、この数年が間、願いつる事これなり」(御書1059)。「不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし。いかにやくそくをばたがへらるるぞ」(御書1060)といはれて、名剣蛇胴丸の許に音吐朗々と唱へられたる南無妙法蓮華経を、
(佐渡)
 或は又「佐渡の国にありし時は〇つかはらと申す御
三昧所あり。〇四壁はやぶれたり。雨はそとの如し。雪は内に積もる。仏はおはせず。筵・畳は一枚もなし。〇法華経を手ににぎり、蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり」(御書1264)。此の四ヶ年に唱へたる南無妙法蓮華経。此の四ヶ度の大難小難は「風の前の塵なるべし」(御書572)といはれ、宗祖日蓮大聖人の骨肉をけづられたる南無妙法蓮華経を、ぬくぬくと座布団に座って自分の為のみに家内安全の為のみに、或は又、卑しい自己の欲望の為のみに「南無妙法蓮華経」と、唱えておるとしましたならば、洵に宗祖大聖人に対して申し訳がないと申さねばなりません。
(悪しく敬へば国亡ぶべし)
 されば「日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(御書1066)と、日蓮大聖人は断言せられましたが、大聖人滅後六百年にして此の御金言は証明せられたではありませんか。此の御金言は私共が個人の面に於いて大いに反省せねばなりません。既に『立正安国論』には「汝須く一身の安堵を思はば先ず四表の静謐を祈るべきものか」(御書249)とあります。又「設ひ万祈を作すとも日蓮を用ひざれば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん」(御書748)と、日蓮大聖人は予言せられましたが、私共は蒙古襲来当時の壱岐・対馬の住人が味った以上の悲劇を、大東亜共栄圏の夢一朝に破れて、北はアッツ島より、南はニューギニアの密林に於いてすら、なめつくしたではありませんか。私共は此の御金言は国家的な面に於いて大いに反省致さねばなりません。御会式には必ず捧読致す『立正安国論』には「天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」(御書247)とあります。今日敗戦の原因は自行のみの題目を唱えて化他の題目を忘れたる日蓮門下もありといふべきであります。
(安国論 申状)
 「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(御書250)
 されば年々歳々の御大会で『立正安国論』に次いで捧読致す申状には、何とありますか。
 日興上人は「法華本門の正法を立てらるれば天下泰平国土安全たるべし」(聖典569)といはれ、日目上人は「一乗妙典を崇敬せらるれば金言しかも愆たず、妙法の唱え閻浮に絶えず、〇日目先師の地望を遂げんがために後日の天奏に達せしむ。」(聖典570)といはれて、美濃の垂井の雪中に屍をうづめられたではありませんか。併して、日道上人・日行上人・日有上人申状はすべて、「身のために之を言さず、国の為、君の為、法の為、重ねて言上」(聖典574取意)とあるではありませんか。富士山下の面々すべてこれ自行化他に亙る題目こそ富士門流の精神でありました。少なくとも立正安国論と申状を捧読せねば御大会が勤まらぬ。
(御会式に唱へる題目はなにか)
 此の御会式御大会に皆様が唱える題目こそ如上の精神に立脚しておる。卑しい自己の欲望を滅却した、自行化他に亙る題目こそ高らかに唱えられるべき南無妙法蓮華経であります。
(仏教八五%、キリスト教四%の比率逆転)
 此の自行化他に亙る題目を唱うる時、今日ぼうよう(茫洋)として起こるキリスト教もとうろう(蟷螂)の斧といふべきでありましょう。本年七月の調査によると仏教を信ずる者八五%に対してキリスト教を信ずる者僅かに四%であります。単なる自分と自分の妻と子供の為に、自分と自分の夫と子供の為のみに、南無妙法蓮華経を唱えておりましたならば此の比率は逆転して、キリスト教八五%、仏教四%の比率になること、火をみるより明らかであります。今こそ富士門流の人々は伝統の精神にかへるべきであります。
(東都池上御会式の批評)
 先般、日蓮宗池上に於ける四十万の人出は七十万の収益をもたらしましたが、七十万円をうるため、それよくたまる、もうかるるのだ等と東京の辻々にポスターを出して宣伝相つとめましたが、これが御会式と致しましたならば、仏教四%、キリスト教八五%に逆転すること、正しく一朝であるといふべきです。
(水魚の思ひ)
 「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か」(御書514n)とありますが、異体とは弟子檀那のことで、同心とは大聖人の御心に同如し奉ることである。私達相互が水となり魚となるのではなく、日蓮大聖人の御心を水とし吾等は魚となるべきだと解しますならば、まさしく南無妙法蓮華経を一人でも多く教化するといふ意味の題目を唱ふ、自行化他の南無妙法蓮華経を唱ふべきであります。
(自行化他の融合)
 此の心を心とする時、自行を徹底すれば必ずや化他となり、化他を徹底すれば自行となる。自行化他混然一体の南無妙法蓮華経となります。化他とは六ヵ敷いことにあらず、辻説法をせよといふのではなく、「私が唱へても子供が唱へない」「おれがやっても女房が
唱へない」といふ家があったならば一家こぞって唱へる様にするのも化他の一分である。
(落成の祝辞)(焼失の真の原因)
 此の敗戦の現実を前にして意気阻喪することなく、平和日本再建の時、富士門流の精神に立脚して真の南無妙法蓮華経を唱ふべき好機は来たのだと申すべきであります。本日盛大に客殿・六壷が新しく完成致しました。先般客殿は焼失致しましたが、化他を忘れて自行のみの題目を唱へておったる罪を啼泣し、ここに新しき真の自行化他に亘る御題目を唱ふべき道場として
完成したことを喜ぶべきでありませう。

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