平成20年4月度座談会
四 条 金 吾 殿 御 返 事
文永九年 五十一歳

 法華経に云はく「若し善男子善女人、我が滅度の後に能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ如来の所遣として如来の事を行ずるなり」等云云。法華経の一字一句も唱へ、又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使ひなり。然れば日蓮賤しき身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たれり。此を一言もそしらん人々は罪無間を開き、一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもすぎたりと見えたり。(新編620頁)

(通釈)
 法華経に「若し善男子、善女人があって、我が滅度の後、竊かに一人の為に、法華経の一句なりとも説くものがいるならば、その人は則ち、如来の使いであって、如来の所遣として如来の事を行ずる者である」と云われているように、法華経の一字一句を唱え、若しくは人に説き聞かせる者は、教主釈尊の御使いである。したがって、日蓮は賎しい身ではあるが、教主釈尊の勅宣を蒙って、法華経を弘める為に日本国に生まれた者である。それ故、たとえ一言でも日蓮を謗る人々は無間地獄に堕ち、一字一句でも供養する人々は、無数の仏を供養するにも勝れている。

(解説)
 末法においては、釈尊を供養する事よりも、法華経の行者たる日蓮大聖人を供養する事の方がはるかに勝れて  いるのである。末法の仏は宗祖大聖人であり、印度出現の釈尊ではないからである。ここで言う如来の使、如来の所遣、如来の事を行ずるという事は、釈尊自らが末法の化導の任ではないという事を明確に示された御文である。したがって、私達は、大聖人の弟子として、どこまでも大聖人に従い、大聖人を供養し、大聖人に御報恩の誠を尽くし、折伏を第一義とするのである。

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