御書講(平成十九年二月)
文永九年五月二日  五十一歳
四条金吾殿御返事(二)

 経に云はく「諸仏智慧甚深無量」云云。此の経文に諸仏とは十方三世の一切の諸仏、真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀、乃至諸宗諸経の仏菩薩、過去未来現在の総諸仏、現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて、次に智慧といへり。此の智慧とはなにものぞ、諸法実相十如果成の法体なり。其の法体とは又なにものぞ、南無妙法蓮華経是なり。釈に云はく「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云へり。其の諸法実相と云ふも、釈迦多宝の二仏とならうなり。諸法をば多宝に約し、実相をば釈迦に約す。是又境智の二法なり。多宝は境なり、釈迦は智なり。境智而二にしてしかも境智不二の内証なり。此等はゆゝしき大事の法門なり。煩脳即菩提・生死即涅槃と云ふもこれなり。まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを、煩脳即菩提・生死即涅槃と云ふなり。生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり。普賢経に云はく「煩脳を断ぜず五欲を離れず、諸根を浄むることを得て諸罪を滅除す」と。止観に云はく「無明塵労は即ち是菩提、生死は即ち涅槃なり」と。寿量品に云はく「毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめん」と。方便品に云はく「世間の相常住なり」等は此の意なるべし。此くの如く法体と云ふも全く余には非ず、ただ南無妙法蓮華経の事なり。(新編597頁)

(通釈)
 法華経の方便品に諸仏の智慧は甚深であり、無量であると説かれている。此の経文の諸仏とは十方三世の一切の諸仏である。すなわち真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀仏、その他の諸宗諸経の仏菩薩、過去未来現在のあらゆる仏、現在の釈迦仏等を諸仏と説きあげて次の文に智慧とある。その智慧とは何ものぞ、それは諸法実相、十如果成の法体である。その法体はまた何ものぞ、それは南無妙法蓮華経である。釈に云はく実相の深理、本有の妙法蓮華経と言う事が出来る。その諸法実相というも釈迦多宝の二仏と習うのである。諸法をば多宝に約し、実相をば釈迦に約す。これまた境智の二法である。多宝は境、釈迦は智である。境智而二にして而も境智不二の内証である。これらはゆゆしき大事の法門である。煩悩即菩提、生死即涅槃というのもこの事である。まさしく男女の交わりの時も南無妙法蓮華経と唱える時を煩悩即菩提、生死即涅槃というのである。生死の当体、不生不滅と悟るより外に生死即涅槃はないのである。普賢経に云はく、煩悩を断ぜず五欲を離れず、諸根を清める事を得て諸罪を滅除するのである。天台大師の摩訶止観に、無明の塵労は即ち是れ菩提、生死は即ち涅槃なりとあり、寿量品に云はく、仏は常に如何にして衆生に無上道に入らしめ、如何にして速やかに成仏をさせようかと思い願っておられるとある。方便品に云はく、世間の相がそのまま常住不滅である等とは此の意であるとある。此くの如く法体というも、全く余には非ず。ただ南無妙法蓮華経のことである。

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