御書講(平成十九年二月)
文永九年五月二日  五十一歳
四条金吾殿御返事(三)

  かかるいみじくたうとき法華経を、過去にてひざのしたにおきたてまつり、或はあなづりくちひそみ、或は信じ奉らず、或は法華経の法門をならうて一人をも教化し、法命をつぐ人を、悪心をもてとによせかくによせおこづきわらひ、或は後生のつとめなれども、先づ今生かなひがたければしばらくさしおけなんどと、無量にいひうとめ謗ぜしによて、今生に日蓮種々の大難にあうなり。諸経の頂上たる御経をひきくをき奉る故によりて、現世に又人にさげられ用ひられざるなり。譬喩品に「人にしたしみつくとも、人心にいれて不便とおもふべからず」と説きたり。
  然るに貴辺法華経の行者となり、結句大難にもあひ、日蓮をもたすけ給ふ事、法師品の文に「遣化四衆・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷」と説き給ふ。此の中の優婆塞とは貴辺の事にあらずんばたれをかささむ。すでに法を聞いて信受して逆らはざればなり。不思議なり、不思議なり。 若し然らば日蓮法華経の法師なる事疑ひなきか。「則如来使」にもにたるらん「行如来事」をも行ずるになりなん。多宝塔中にして二仏並坐の時、上行菩薩に譲り給ひし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり。此即ち上行菩薩の御使ひか。貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ。是豈流通にあらずや。法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやすみぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。あしき名さえ流す、況んやよき名をや。何に況んや法華経ゆへの名をや。女房にも此の由を云ひふくめて、日月両眼さうのつばさと調ひ給へ。日月あらば冥途あるべきや、両眼あらば三仏の顔貎拝見疑ひなし。さうのつばさあらば寂光の宝刹へ飛ばん事須臾刹那なるべし。委しくは又々申すべく候。恐惶謹言
 五月二日 日蓮花押 四条金吾殿御返事(新編五九八頁)


(通釈)
  このような非常に尊い法華経を過去において膝の下に置いたり、或は侮り、苦々しく思って口を歪めたり、或は信じなかったり、或は法華経の法門を習い一人でも教化して法の命を継ごうとする人を、悪心を持って何かにつけて馬鹿にし、嘲笑したりした。或は未来世のつとめではあるけれども、まず今生は叶いがたいので、しばらく止めておけなどと、数え切れないほど悪口を言って嫌った。このように日蓮は法華経を誹謗したことによって今生に種々の大難に値うのである。諸経の頂上である法華経を低く置いた罪報によって、現世に人に卑しめられ用いられないのである。譬喩品には「人にしたしみつくとも、人心にいれて不便とおもふべからず」と説かれている。
  それなのにあなたは法華経の行者となり、ついに大難にも値い、日蓮をも助けたことは、法師品に「化の四衆、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣す」と説かれている。この中の優婆塞とはあなたの事でなければ他の誰の事を指すのであろうか。すでに私の法を聞き、法を信受し、法に逆らわないからである。不思議である、不思議である。
  もしそうであるならば、日蓮は法華経の法師である事は疑いの無い事である。法師品の「則ち如来の使」の文に似て、まさに「如来の事を行ず」るのである。多宝如来が多宝塔中に坐し釈迦多宝の二仏並座の時、上行菩薩に付嘱された妙法蓮華経の題目の五字を日蓮はおおかた弘めてきたのである。これは即ち上行菩薩の使いではなかろうか。あなたは又日蓮に従い、法華経の行者として多くの人を教化してきた。これがどうして流通でないのか。法華経の信心を貫き通しなさい。火をおこそうとしても、休んでしまえば火を得る事が出来ないのである。強盛な大信力をおこし、法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万民、或は日本国の一切衆生の口から謳われなさい。悪人の名前は弘まらない。ましてや善人の名前は尚更である。ましてや法華経を弘通する人の名前は更に難しいのである。妻にもこの事を伝え、月と日の様に、眼が二つ有る様に、左右の翼の様に、妻とそろって法華経の信心を貫き通しなさい。日月があれば冥途もなく、両眼があれば釈迦・多宝・十方分身の三仏の顔貌を拝見出来る事は疑いが無い。左右の翼があれば常寂光土へ飛ぶ事は一瞬である。委しくは後に申します。恐々謹言。
 五月二日 日蓮花押  四条金吾殿御返事  

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