御書講(平成20年1月)
建治元年五月八日  五十四歳
一谷入道女房御書(一)


 去ぬる弘長元年太歳辛酉五月十二日に御勘気をかを(蒙)ほりて、伊豆国伊東の郷(ごう)というところに流罪せられたりき。兵衛介(ひょうえのすけ)頼朝のながされてありしところなり。さりしかどもほどもなく同じき三年太歳癸亥二月に召し返されぬ。又文永八年太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽(たちま)ちに頚(くび)を刎(は)ねらるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の島を知行する武蔵前司(むさしのぜんじ)の預かりにて、其の内の者どもの沙汰として彼の島に行き付きてありしが、彼の島の者ども因果の理をも弁(わきま)へぬあら(荒)えび(夷)すなれば、あらくあたりし事は申す計りなし。然れども一分も恨(うら)むる心なし。其の故は日本国の主として少しも道理を知りぬべき相模( さ がみ)殿だにも、国をたすけんと云ふ者を子細も聞きほど(解)かず、理不尽に死罪にあてがう事なれば、いわ(況)うやそのすへ(末)の者どものことはよき(善)もたのまれず、あし(悪)きもにくからず。此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り、名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思ひ儲(もう)けしなり。(新編757頁)

(通釈)
 去る弘長元年五月十二日に御勘気を蒙って、伊豆の国伊東の郷という処に流罪せられた。源の頼朝がかつて流された処である。しかしそれから程なく弘長三年二月二十二日に赦されて召し返された。又文永八年九月十二日に重ねて御勘気を蒙り、たちまちに頸を刎られるところであったが、子細が有ったようでしばらく延長され、北国佐渡の島を知行する武蔵前司の預かりによって、その内の者達の沙汰として佐渡の島へ行き着いたのであるが、この島の者達は因果の道理をも弁えない荒夷なので、荒くあたることは言うまでもない。しかしながら一分も恨む心はない。その故は日本国の主として少しの道理は知っているはずの相模殿でさえも、国を助けるという者の子細も聞き解かず、理不尽に死罪にあてがうのであるから、言うまでもなくその末の者達は善いものもあてに出来ず、悪いものも憎くないのである。此の法門を申し始めた時より、日蓮が命は法華経に捧げ奉り、名を十方世界の諸仏の浄土に流布せしめようと思い用意してきたのである。

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