御書講(平成20年5月)
建治元年五月八日  五十四歳
一谷入道女房御書(五)


 此の国の人々は一人もなく教主釈尊の御弟子(みでし)御民ぞかし。而るに阿弥陀等の他仏を一仏もつく(造)らず、かヽ(画)ず、念仏も申さずある者は悪人なれども釈迦仏を捨て奉る色は未だ顕はれず。一向に阿弥陀仏を念ずる人々は既(すで)に釈迦仏を捨て奉る色顕然(けんねん)なり。彼の人々の墓無(はかな)き念仏を申す者は悪人にてあるぞかし。父母にもあらず主君・師匠にてもおはせぬ仏をば、いと(愛)をしき妻の様にもてなし、現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て、乳母(めのと)の如くなる法華経をば口にも誦(じゅ)し奉らず。是豈(あに)不孝の者にあらずや。此の不孝の人々、一人二人、百人千人ならず、一国二国ならず、上一人より下万民にいたるまで、日本国皆こぞ(挙)て一人もなく三逆罪のものなり。されば日月色を変じて此をにらみ、大地もいか(瞋)りてをど(震)りあが(動)り、大せいせい(彗星)天にはびこり、大火国に充満すれども僻事(ひがごと)ありともおも(思)はず、我等は念仏にひまなし、其の上念仏堂を造り、阿弥陀仏を持ち奉るなんど自讃(じさん)するなり。是は賢き様にて墓無し。譬へば若き夫妻等が夫は女を愛し、女は夫をいとおしむ程に、父母のゆくへ(行方)をし(知)らず。父母は衣薄(うす)けれども我はねや(閨)熱し。父母は食せざれども我は腹に飽(あ)きぬ。是は第一の不孝なれども彼等は失(とが)ともしらず。況んや母に背く妻、父にさか(逆)へる夫、逆重罪にあらずや。阿弥陀仏は十万億のあなた(彼方)に有りて、此の娑婆世界には一分も縁なし。なにと云ふとも故もなきなり。馬に牛を合はせ、犬に猿をかた(語)らひあるが如し。(新編828頁)

(通釈)
 此の国の人々は一人残らず教主釈尊の御弟子である。それなのに阿弥陀仏等の他仏を一仏も造立せず、描かず、念仏も行じない者は悪人であっても釈迦仏を捨てた樣子はまだ顕れない。ひたすらに阿弥陀仏を念ずる人々は既に釈迦仏を捨てた樣子がはっきりしている。そうした人々の様にはかない念仏を唱える者は悪人である。父母でもなく、主君や師匠でもない仏を、愛しい妻の様にもてなし、実際に国主、父母、明師である釈迦仏を捨て、乳母のような法華経を口にも唱えない。どうして不孝の者でないと言えるだろうか。この不孝の人々は、一人や二人、百人や千人でもなく、一国や二国でもなく、上一人から下万人に至るまで、日本国の人々は皆こぞって一人残らず三逆罪の者である。それ故日月は顔色を変えてこれを睨み、大地も瞋って振動し、大彗星は天にはびこり、大火は国に充満すれども、誤りがあるとも思わず、我々は念仏に余念がなく、その上念仏堂を造り、阿弥陀仏を持っているなどと自賛しているのである。是は賢いようであるけれどもはかないものだ。譬えていうならば、若い夫婦等が夫は妻を愛し、妻は夫を愛おしむ程に、父母の将來に関心を払わない。父母の衣は薄いけれども、私の寝室は暖かい。父母は食べ物がないけれども、自分達は満腹になってしまった。これは第一の不孝であるけれども、彼等は間違いであるとも思わない。ましてや母に背く妻、父に逆らう夫は、逆重罪でないと言えるだろうか。阿弥陀仏は十万億の彼方にいて、この裟婆世界には少しも縁がない。何と言おうとも理由がないのである。馬に牛を合わせ、犬に猿を語るようなものである。

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