御書講(平成20年6月)
建治元年五月八日  五十四歳
一谷入道女房御書(六)


 但日蓮一人計り此の事を知りぬ。命をお(お蓮)しみて云はずば国恩を報ぜぬ上教主釈尊の御敵となるべし。是を恐れずして有りのまヽに申すならば死罪となるべし。たと(たと云)ひ死罪はまぬか(まぬか))るとも流罪は疑ひなかるべしとは兼ねて知りてありしかども、ぶっとん(ぶっとんは)重きが故に人をはヾからず申しぬ。案にたがはず両度まで流されて候ひし中に、文永九年の夏のころ(ころ故)、佐渡国石田郷いちのさわ(いちのさわ郷)と云ひし処に有りしに、預かりたるなぬし(なぬし処)等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりもにく(にく公)げにありしに、宿の入道といゐ、妻(妻あ)といゐ、つかう者(者ゐ)と云ひ、始めは怖(怖ひ)恐(恐ひ)れしかども先世の事にやありけん、内々ふびん(ふびんあ)と思ふ心付きぬ。預かりよりあづかる食は少なし。付ける弟子は多くありしに、わず(わず心)かの飯の二口三口ありしを、或は折敷(折敷の)に分け、或は手に入れて食せしに、あるじ(あるじに)内々心有(有心)て、外にはをそるヽ様なれども内には不便げにありし事いつ(いつに)の世にか忘(忘に)れん。我を生みておはせし父母よりも、当時は大事とこそ思ひしか。いか(いか我)なる恩をもはげむべし。まして約束せし事たがうべしや。然れども入道の心は後世を深く思ひてある者なれば、久しく念仏を申しつもりぬ。其の上阿弥陀堂を造り、田畠も其の仏の物なり。地頭も又恐(恐恩)ろしなんど思ひて直ちに法華経にはならず。是は彼の身には第一の道理ぞかし。然れども又むけんだいじょう(むけんだいじょうち)は疑ひ無し。たと(たと無)ひ是より法華経をつか(つかり)はしたりとも、世間も怖(怖世)ろしければ念仏すつべからずなんど思はヾ、火に水を合はせたるが如し。 (新編829頁)

(通釈)
 ただ日蓮一人だけがこの事を知っておりました。命を惜しんで言わなかったならば、国恩を報じない上に、きっと教主釈尊の御敵となる事だろう。これを恐れないでありのままに申し上げるならば、きっと死罪となる事だろう。たとえ死罪は免れる事ができても流罪は疑いない事であるとは兼ねて知っていたけれども、仏恩が重いために人をはばからず申し上げた。案にたがわず両度まで流された中で、文永九年の夏の頃、佐渡国石田郷一谷と言う所にいた時に、預かっている名主等は、公私に渡って、父母の敵よりも、また宿世からの敵よりも憎々しげであったが、宿の入道といい、その妻といい、使用人といい、始めは恐がり、怖じ気づいていたけれども、前世の事であったのだろうか、内々に憐れみの心が出てきた。世話をする人からいただく食べ物は少ない。お供する弟子は多くいたが、僅かの御飯が二口三口分あったのを、或は折敷に分け、或は手に入れて食べた時に、宅主は内々心があって、外に対しては恐れている樣子であったけれども、内に対しては気の毒な樣子であった事をいつの世で忘れるだろうか。私を生んでくださった父母よりも、当時は大事な事であると思った。どのような恩も励む事だろう。まして約束した事を反古にする事ができようか。けれども、入道の心は来世を深く思っていることであるから、長い間念仏を申し上げてこられた。その上阿弥陀堂を造り、田畠もその仏の物である。地頭も又恐ろしい等と思って、すぐに法華経にはならない。これは彼らの身には第一の道理である。けれども又無間大城は疑いない事である。たとえこれから法華経をお渡ししても、世間も恐ろしいので、念仏は捨てないようにしよう等と思うならば、火に水をかけるようなものである。

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