御書講(平成20年8月)
建治元年五月八日  五十四歳
一谷入道女房御書(八)


 日蓮が申す事は愚かなるものの申す事なれば用いず。されども去ぬる文永十一年大歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに宗の相馬尉逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし、女をは或は取り集めて手をとをして船に結い付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道豊前の前司は逃げて墜ちぬ。松浦党は数百人打たれ、或は生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐、対馬の如し。今度は如何が有るらん。彼の国に百千万億の兵、日本国を引き回らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ。北の手は先ず佐渡の島に付きて、地頭、守護をば須臾に打ち殺し、百姓等は北山へにげん程に、或は殺され、或は生け取られ、或は山にして死ぬべし。抑是程の事は如何として起こるべきぞと推すべし。前に申しつるが如く、此の国の者は一人もなく三逆罪の者なり。是は梵王、帝釈、日月、四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給ひて責め給ふなり。日蓮は愚かなれども、釈迦仏の御使ひ、法華経の行者なりとなのり候を用ひざらんだにも不思議なるべし。其の失に依って国破れなんとす。況んや或は国々を追ひ、或は引っぱり、或は打擲し、或は流罪し、或は弟子を殺し、或は所領を取る。現の父母の使ひをかくせん人々よかるべしや。日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背かん事よ。念仏を申さん人々は無間地獄に墜ちん事決定なるべし。たのもしたのもし。
(新編830頁)

(通釈)
 幕府は日蓮の申し上げている事は愚かであるとして用いない。けれども去る文永十一年にモンゴル軍が筑紫に責め寄せてきた時に、筑紫の武士を集めていたのにもかかわらず宗の相馬尉が逃げ出したので、百姓達の男は殺されるか生け捕りにされ、女は集められて、手に縄を通して船に結いつけられ、生け捕りにされた。一人も助かる者はいなかった。壱岐においても同様である。船が押し寄せてきた時には、奉行入道豊前の前司は逃げ落ちてしまった。松浦党は数百人打たれ、或いは生け捕りにされてしまったので、浦々の百姓たちは、壱岐や対馬と同じようにされてしまった。今度はどうなるのだろうか。彼の国にいる百千万億の兵が、日本国を取り囲んで押し寄せて来るならば、どうなるのだろうか。北の攻め手は先ず佐渡の島に着いて、地頭、守護を瞬く間に打ち殺し、百姓達は北山に逃げるうちに、殺されたり、生け捕られたり、或いは山において死んでしまうだろう。そもそもこれほどの事はどうして起こったのかと推測するべきである。前に申し上げたように、この国の者は全て三逆罪の者である。これは梵王、帝釈、日月、四天が、彼のモンゴル国の大王の身にお入りになって、お責めになっているのである。日蓮は愚かな人間である。けれども、釈迦仏の御使いであり、法華経の行者であると名乗っているのに、用いないのは不思議である。その失によって、国が滅びようとしている。まして国を追放し、引き回して、打擲し、流罪にし、弟子を殺し、所領を取り上げたりした。本当の父母の使いを隠そうとする人々にとっては、善い事であろう。日蓮は日本国の人々の父母であり、主君であり、明師であるぞ。これに背く事よ。念仏を信仰する人々が無間地獄に墜ちることは疑いない。心強い事である。

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