御書講(平成20年10月)
妙一尼御前御消息(一)


 夫れ天に月なくば草木いかでか生ずべき。人に父母あり、一人もかけば子息そだちがたし。其の上過去の聖霊は或は病子あり、或は女子あり。とどめをく母もかいがいしからず。たれにいゐあづけてか冥土にをもむき給ひけん。  大覚世尊、御涅槃の時なげいてのたまわく、我涅槃すべし、但心にかかる事は阿闍世王のみ。迦葉童子菩薩、仏に申さく、仏は平等の慈悲なり。一切衆生のためにいのちを惜しみ給ふべし。いかにかきわけて、阿闍世王一人とをはせあるやらんと問ひまいらせしかば、其の御返事に云はく「譬へば一人にして而も七子有り、是の七子の中に一子病に遇へり、父母の心平等ならざるに非ず、然れども病子に於て心則ち偏に多きが如し」等云々とこそ仏は答へさせ給ひしか。文の心は、人にはあまたの子あれども、父母の心は病する子にありとなり。仏の御ためには一切衆生は皆子なり。其の中罪ふかくして世間の父母をころし、仏経のかたきとなる者は病子のごとし。
(新編御書 831)

(通釈)
 そもそも天に月がなければ、草木はどうして生える事ができるだろうか。人には父母がいる。その内の一人でも欠けたならば、子供が育つ事は難しい。そのうえ、過去の聖霊には病の子がおり、また女の子がいた。現世の留め置く母も頼もしいわけではない。どうして誰かに言い預けて冥土に赴く事ができただろうか。
  大覚世尊は、御涅槃の時に嘆いておっしゃるには「私は涅槃を迎えるだろう。ただ心残りなのは阿闍世王だけである」と。すると迦葉童子菩薩が、仏に申し上げた。「仏は平等の慈悲です。一切衆生のために命を惜しみなさるべきです。どうして私たちを払いのけて阿闍世王一人と仰せになるのですか。」と問い申し上げたところ、その御返事として言われるのには「例えば一人の人に七人の子供がいたとしよう。この七人の子供の中に一人の子供が病に遇ったとしたら、父母の心は平等でないはずがない。しかし、病の子供に対しては、心をより多く傾けるようなものだ」等と仏はお答えになられた。この文の心は、人にはたくさんの子供がいるけれども、父母の心は病気の子供にあるということです。仏にとっては一切衆生は皆子供です。その中において、罪が深く、世間の父母を殺し、仏教の敵となる者は病気の子供のようなものなのです。

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