御書講(平成20年11月)
妙一尼御前御消息(三)


 しかるに聖霊は或は病子あり、或は女子あり。われすてて冥土にゆきなば、かれたる朽木のやうなるとしより尼が一人とどまりて、此の子どもをいかに心ぐるしかるらんとなげかれぬらんとおぼゆ。かの心のかたがたには、又日蓮が事、心にかからせ給ひけん。仏語むなしからざれば法華経ひろまらせ給ふべし。それについては、此の御房はいかなる事もありていみじくならせ給ふべしとおぼしつらんに、いうかいなくながし失せしかば、いかにやいかにや法華経、十羅刹はとこそをもはれけんに、いままでだにもながらえ給ひたりしかば、日蓮がゆりて候ひし時、いかに悦ばせ給はん。
(新編御書 832)

(通釈)
 しかしながら、聖霊には或いは病気の子供がいる。或いは女の子供がいる。自分が彼らを捨てて冥土に赴くならば、枯れている朽ち木のような年寄りの尼が一人留まって、この子供たちがどれほど辛いだろうかと嘆くだろうと思われる。そのような心の方々には、また私の事が、気になる事でしょう。仏様の言葉が虚しいものでないならば、法華経は広まる事でしょう。それについては、この御房はどのような事があって不吉な事になったのだろうと思うだろうに、あっけなく流されてしまったので、どうして法華経や十羅刹女はお助けしなかったのかと思われただろう。今まで生きながらえていたならば、私が赦免された時、どれだけ悦ばれたことだろうか。

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