御書講(平成21年1月)
妙一尼御前御消息(四)


 これは凡夫の心なり。法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を。経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候。故聖霊は法華経に命をすててをはしき。わづかの身命をささえしところを、法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや。彼の雪山童子の半偈のために身をすて、薬王菩薩の臂をやき給ひしは、彼は聖人なり、火に水を入るるがごとし。此は凡夫なり、紙を火に入るるがごとし。此をもって案ずるに、聖霊は此の功徳あり。大月輪の中か、大日輪の中か、天鏡をもって妻子の身を浮かべて、十二時に御らんあるらん。設ひ妻子は凡夫なれば此をみずきかず。譬へば耳しゐたる者の雷の声をきかず、目つぶれたる者の日輪を見ざるがごとし。御疑ひあるべからず。定んで御まぼりとならせ給ふらん。其の上さこそ御わたりあるらめ。  力あらばとひまいらせんとをもうところに、衣を一つ給ふでう存外の次第なり。法華経はいみじき御経にてをはすれば、もし今生にいきある身ともなり候ひなば、尼ごぜんの生きてもをわしませ。もしは草のかげにても御らんあれ。をさなききんだち等をば、かへりみたてまつるべし。さどの国と申し、これと申し、下人一人つけられて候は、いつの世にかわすれ候べき。此の恩はかへりてつかへたてまつり候べし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。恐々謹言。  五月 日                     日  蓮 花押 妙一尼御前
(新編御書 832)

(通釈)
 これは凡夫の心である。法華経を信ずる人は冬のようなものである。だが冬は必ず春となる。いまだ昔から聞いたことも、見たこともない、冬が春にならず秋に戻ったことを。同じように、いまだ聞いたこともない、法華経を信ずる人が仏にならずに凡夫に戻ってしまったことを。法華経方便品には「もし法を聞くことが出来た者は一人として成仏しないということはない」と説かれている。亡くなられたご主人は、法華経のために身命を捨てた方である。わずかの身命を支えていた所領を、法華経の故に召し上げられたということは、法華経の為に命を捨てたのと同じではないだろうか。かの雪山童子は仏法の半偈を聞くために身を捨て、薬王菩薩は七万二千歳の間ひじを焼いて仏前を照らして仏に供養された。かの人達は、聖人であったのでそれらの修行も火に水をいれるようなものでそれほど厳しいものには感じなかった。しかしご主人は凡夫なので、紙を火に入れるようなもので、その難は厳しく感じられただろう。このことからご主人は、かの雪山童子や薬王菩薩と同じ功徳を得られたのである。
大月輪の中か大日輪の中か、常に妻子たちを見守っておられますから、これを見る事も聞くこともできなくても、決してこれを疑ってはならない。
  できることならばこちらから訪ねようと思っていたところへ、かえって衣を戴いたことは全く思いがけない次第である。法華経はありがたいお経なのだから、もし今生に勢いのある身ともなったら、尼御前が生きておられるにせよ、陰からご覧になっているにせよ、幼い子供達は私が見守り育てる思いである。
  佐渡といい、この身延といい、下人を一人付けられた御志は、いつの世に忘れることがあるだろうか。この恩は生まれ変わって報いるものである。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。恐々謹言。

戻る