御書講(平成21年5月)
立正安国論(四)


 客色を作して曰く、後漢の明帝は金人の夢を悟りて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構へを成す。爾しより来、上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専らにす。然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四海・一州・五畿・七道に、仏経は星のごとく羅なり、堂宇雲のごとく布けり。シ子の族は即ち鷲頭の月を観じ、鶴勒の流は亦鶏足の風を伝ふ。誰か一代の教を褊し三宝の跡を廃すと謂はんや。若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。
  主人喩して曰く、仏閣甍を連ね経蔵軒を並べ、僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり。崇重年旧り尊貴日に新たなり。但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ふること無し。
  仁王経に云はく「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず。是を破仏・破国の因縁と為す」已上。
  涅槃経に云はく「菩薩、悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。
  法華経に云はく「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん。或は阿練若に納衣にして空閑に在り、自ら真の道を行ずと謂ひて人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるゝこと六通の羅漢の如くならん。乃至常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かって誹謗して我が悪を説いて、是邪見の人外道の論議を説くと謂はん。濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入って我を罵詈し毀辱せん。濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙し数々擯出せられん」已上。
  涅槃経に云はく「我涅槃の後無量百歳に四道の聖人悉く復涅槃せん。正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像して少しく経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細視除するが如く猫の鼠を伺ふが如し。常に是の言を唱へん、我羅漢を得たりと。外には賢善を現じ内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」已上。文に就いて世を見るに誠に以て然なり。悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや。
(新編御書 236)

(通釈)
  客が顔色を変えて言うには、後漢の顕宗孝明皇帝は、金人の夢を見てその意味を悟り、インドから仏教典を白馬にに乗せて中国に渡らせた。日本の聖徳太子は、排仏派の物部守屋の叛逆を討伐し、国内に寺塔を建立して仏教を興隆した。以来、上は天皇から下は万民に至るまで、仏像を崇め経巻を読むようになったのである。それ故、比叡山・南都・園城。東寺をはじめ、四海・一州・五幾・七道の津々浦々まで、仏像・経巻は星のごとく連なり、寺院は雲のごとく建ち並んでいる。また、諸宗の高僧達は、舎利弗以来の伝統を守って観法を行じ、鶴勒以来の伝統を守って教法を習学している。いったい釈尊一代の聖教を軽んじ、仏法僧を廃れてしまったなどと、誰がいえようか。もしその根拠があるというのなら、くわしくそのわけを聞こうではないか。
  主人が客を喩していうには、たしかに多くの寺院が甍をを連ね、経蔵が軒を並べるようにして建っているし、僧侶も竹葦・稲麻のごとく多勢いる。そしてそれらの寺院や人々が崇め重んじるようになって年久しく、しかも、これを尊ぶ信仰心は日に日に新たである。しかしながら、その僧侶はといえば、権力や財力にへつらい、心が曲がっていて、人々を正しい道に迷わせており、国王や臣下は仏法の道理に暗いため、その邪正をわきまえられずにいる。
  仁王経には、「諸々の悪い僧侶の多くは、自分の名誉や利益を求めて、国王や太子・王子などの権力者の前で自ら仏法を破る因縁、国を破る因縁となる教えをとくであろう。その王は悪侶の説いた教えの正邪をわきまえることができずに、その言葉をそのまま信じて聴いてしまい、道理に外れた法制を作って仏戒によらない。これを破仏・破国の因縁となすのである。」以上。
  涅槃経には、「菩薩達よ、狂暴な悪象等に対しては、なんら恐れることはない。しかし、悪知識に対しては恐れる心を起こさなければならない。なぜなら、悪象に殺されても三悪道に堕ちることはないが、悪友に殺されれば、必ず三悪道に堕ちるからである。」以上。
  法華経には、「悪世の中の僧侶は、邪智がたけて心がひねくれており、いまだ仏法の真髄も会得しておらぬのに、すべてを悟りきったかのごとく思い、自らを慢する心が充満している。あるいは、人里離れた寺院などに、僧衣を著けて閑静な座におり、自ら真の仏道を行じていると思い込んで、俗世で暮らす人々を軽んじ賤しむ者もあろう。彼らは自分の身を利し養う目的で、在家の人達のために説法をし、世の人々から尊敬されるさまは、あたかも六神通を得た阿羅漢のごとくにあろう。また、常に大衆を煽動して、正法を持つ者を非難しようと願う故に、国王や大臣・婆羅門・居士および諸々の僧侶達に向かって、正法の行者を誹謗するための悪口を捏造して、『これは邪な考えを持った人であり、道理に外れた論議を説いている』と言うであろう。すべてが濁りきった悪世においては、諸々の恐怖すべき難なたくさんある。悪鬼というべき邪宗邪義の僧侶が、国王・大臣・大衆の心に入り込んで、正法の行者を罵り、謗り、辱めるであろう。濁世の悪侶達は、仏の説いた教えの中にも、一時の方便として、衆生の素養に応じて説かれた法があるということを知らず、方便の教に執着して正法の行者の悪口をいい、顔をしかめて憎み、しばしばその正法の行者を追い出すであろう。」以上。
  涅槃経には、「釈尊が入滅して後、幾百年という長い年月が過ぎるうちに、仏法を正しく伝える聖人達も悉く入滅するであろう。正法時代がすぎて、像法時代、末法時代となれば、次のような僧侶が現れるであろう。その僧は、外面は戒律を持っているかのように見せかけて、少しばかり経文を読むが、その実、食べ物を貪って我が身を長養し、いちおう僧侶の袈裟を身に着けているけれども、檀家の布施を狙うありさまは、猟師が獲物を狙って、細目に見て近づいていくがごとく、また猫が鼠を獲ろうとしているがごとくである。そして、常に、この言葉を言うであろう、『自分は無上の悟りを得た』と。外面は賢人・善人のごとく装っているが、内面には貪りと嫉妬を強く懐いている。仏法の道理などまったくわかっておらず、わずか立ち入った法義上の質問に何一つとして答えられないさまは、あたかも無言の行である唖法の術を修行しているごとくである。実際には僧侶としての意義も有しておらないのに、外見だけ僧侶の姿をしており、邪見が非常に盛んで、正法を誹謗するであろう」以上。
  以上のような経文によって世の中を見てみるに、まったく経文に説かれているとおりである。このような悪侶を誡めなくては、どうして善事を成すことができるであろうか。

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