『日曜講話』第一号(昭和63年3月6日発行)
世界悉檀について

 皆さん、お早うございます。今日から四回に亙りまして、折伏・教化の手段と申しますか、どういうことをきっかけにして、皆様方の御親戚や兄弟やお友達等々にお話をしたらいいか、まあどういうことから始めたらいいかということを考えてみたいと思うのであります。元来、人の教化・折伏ということにつきましては、そういう方策だとか手段というものがあるわけではありません。むしろ一人一人が自らの信心をしっかりと固め、又、大きな慈悲の心をもって相手のお宅へ、相手の所へ、何回となく通って通って通って、そしてこちらの誠意、又、相手を救ってあげようというその一念、その中から向こう側が、なぜ私のために、これ程までにと、こちらの誠意を、その志を、心と心の感応の上から分かって頂く、ということに尽きると思うのであります。従って策ということよりも、むしろ、こちらの執念、情熱、努力、信心ということの積み重ねに尽きるとも思うのであります。しかし一方、仏が衆生を教化する上において、どういう手段をもって私達に教化育成してきたか、ということを学ぶということも、これ又、大切なことだと思うのであります。
  昔から竜樹の『大智度論』であるとか、天台大師の『法華玄義』等々、大聖人様の御書の中にも、仏の化導には四つの化導の姿があるということが説かれているのであります。それを仏法の言葉では「四悉檀」四つの悉檀という風に名付けております。悉檀の悉というのは、ことごとくという意味で、これは翻訳いたしますと、も
のごとが成就する、あるいは究竟する、折伏を誓願するならばその折伏が成就する、功徳を願うならばその功徳が成就するということが、悉ということであります。檀というのは檀那の檀という字を書きますが、これは施すという意味があるのであります。 従って天台大師の『法華玄義』という書き物の中に、
「悉檀とは天竺の語なり。○翻じて(翻訳して)成就、 究竟等と為す。○悉の言は遍(あまねし)なり。檀をば 翻じ て(翻訳いたしまして)施(ほどこす)と為す。 仏四法を以って遍く衆生に施す。故に悉檀と言うなり」(大正蔵三十三−六八六・C)
ということを言われております。
この四つの悉檀とは何かと申しますと、一つには御承知のように、「世界悉檀」というもの、その次がその人その人に対処して法を説く「為人悉檀」、そして相手を破折する「対治悉檀」、最後には正しい正理のもとに導くというので「第一義悉檀」。この四つの悉檀というものが構えられております。
  今日は一番最初の「世界悉檀」ということについてのお話をしたいと思うのであります。同じ『法華玄義』の中に、
この「世界悉檀」について、
  「大聖(仏)は衆生の聞かんと欲楽する(欲する)所 に随順して、分別して為に正因縁世界の法を説いて、 世間の正見を得せしむ。是を世界悉壇の相と名づく」 (同 上)という風に説かれております。この「世界悉壇」という
のは言葉を換えて言うと、これ又「楽欲悉壇」。衆生の欲するところ、その願いを、やはり成就してあげるということが「世界悉壇」ということでございます。
  ですから私達も、そのことを心に置いて、正しい信心というのは、何か特別の修行をしなければいけないとか、あるいは何か特別な生活を強いられるとか、あるいは偏頗な一つの教えに毒されてしまって、社会一般の人間じゃなくて、何か別世界のものを憧れてみたり、特別な何かをするんだというようなことでは決してない。本当の正しい信心というものは、一人一人の自分の生活に密着した家庭を、幸せな家庭にする。盤石な基盤の整った家庭を作っていくというために、この信心があるんだということ。あるいは又、一人一人が自らの心の健康、そして自分の体、身体の健康というものを充実し発展させて、自分の人間性の向上、品格の向上、より豊かな心根を持った一人一人が立派な人格者になっていく。社会の良きリーダー、人材となっていく、というためには、やはりこの正しい信心が必要なのだということ。あるいは又、輝かしい青春時代を生きるために、逞しい青年となるために、又、すがすがしい婦人となるために、誠実な壮年となるために、そして又、人生のいかなる苦悩だとか、一切のそういうものに打ち勝てる自分になる。又、ものごとをしっかりと全体観にわたって、その時その時、テキパキと処理していける、そういう人間になっていく。
  よく男の人は仕事に忙しい、忙しいと、だから信心をする暇がないということをおっしゃいます。しかしながら、忙しいからこそ計画性を持つて、そしてテキパキと処理していくということが必要なのであります。忙しい大事な体、大事な命であるからこそ、心の健康、そして又、自分の身の健康というものが必要なのであります。ですから忙しい人ほど本当にその立場立場で重要な地位に立っていらっしゃる、そういう人であればあるほど、この生活と言わず、信心と言わず、健康と言わず、総てが大事なのでございますね。ですからそういう人が、やはり仕事にかまけて信心が出来ないというのはおかしい。むしろ信心を通して仕事に打ち勝つ。信心を通して良きリーダーとなる。信心を通して人の信頼を得られる自分になっていく。信心を通して福徳を身につけて、初めて総てに打ち勝てる、ということの必要性というものを、よく人々に訴えていく、教えていくということが、これが、つまり言葉を換えて言うと「世界悉檀」ということなのであります。仕事を通じて、あるいは生活を通じて、家庭というものを考え、あるいは政治や教育や一般の諸々の社会で必要なもの、そういうものを通して、相手と自分とが、うまく話合いの出来る関係を、まず自分がしっかりと作って、そうしてそういう同じ共通の話題の中から、一歩一歩この信心に対する覚醒を、その志を起こしていくということが「世界悉檀」ということなのであります。
  こうして、こちらがそういう法を説くという以上は、やっぱり、こちらもその「世界悉檀」に照らして、それに相応しい人間になっていくということが必要であります。自分が会社で何一つ信頼されていない。自分がその友達の中で本当に信頼されていない。そういう中で、いくら一生懸命そういう「世界悉壇」を用いて法を説いたって、だれも聞いてくれません。相手にもしてくれません。やはり、その法を説く以上は、こちらもそれに相応しい人間に、こちらもそれに相応しい人格を磨いていく、持っていくということが大切であります。
  例えば、折角、皆さんがこうやってお寺に参詣しに来られる。その帰りに、どこかの自動販売機でジュースを売っていた。その缶ジュースを飲んで、よその家のお庭へポーンと投げてごらんなさい。そういう姿をたまたま往来の人が見ていた。たまたま御近所の人が見ていた。「なんだ、あいつらは!何が信心だ。何が世界の広布だ!口では偉そうなことを言っても、自分達のやっている姿は何だ」ということになってしまうのであります。あるいは又、皆さん方が折角、会社にお勤めになっていても、恐らく皆さん方が、それぞれ正宗の信心をしておられるということは、やはり会社の同僚も御存知だと思う。その中で皆さん方が会社のそうした職務の中で、いい加減なことをしておりますと「信心しているのに何だ」とか「偉そうなことを言ったって、あいつの日常やっていることは何だ」ということを言われてしまうのであります。ですから、そういう風に言われない人間、言わせない自分になっていくことが、これ又「世界悉檀」をもって人を教化する以上は大切なことなのであります。世間の人は、御本尊がどうだとか、大聖人の教義がどうだとか、ということ、そういう尺度でもって日蓮正宗を見ているのではありません。皆さん方がどういう振舞いをするか、皆さん方が何を言い、どういうことをどういう風な姿をもって自分達に接するかという、そういう尺度で、日蓮正宗を見、又、学会を見、法華講を見ておるのであります。「何だ、偉そうなことを言ったって、何が世界の広布だ。みんな奴らの姿を見れば、いい加減だ。そんないい加減なことをしていて何だ」ということになってしまうのであります。ですから私達の考え方や、私達の振舞いや、私達の仕事に対する姿勢、色々な面で世間の人は、その振舞いをもって、私達の日常の姿を見て、日蓮正宗を判断しておるのだ、ということを一つ心に置いて、やはり自分もそれにふさわしい人間になっていく、生まれ変わっていく、信心を通して自分を作っていく、ということが必要だと思うのであります。これがつまり「世界悉檀」をもって法を説くということであります。
と同時に、これはもう一つ「楽欲悉檀」とも言われております。これは又、考えてみますと、その政治とか教育とか家庭とかいう問題だけじゃなくて、やはり人間にはそれぞれ楽しみとするところ、願うところがあるはずでありますね。ですから共通の趣味ということもあるでしようし、あるいは又、映画とかテレビとかスポーツとか、いろんなそういう余暇を生きる意味も沢山ありますね。そういうものを又、通して同じ共通の境涯に立って、話題に立って、そうして相手に信頼を得て、そして又、法を説いていくということも必要だと思うのであります。これもやはり「楽欲悉檀」。相手の欲するところに従って、相手の願うところに従って、こちらも、それに相対して、そして同じ土壌の中で、一つ一つ相手を導いていくということが「楽欲悉檀」ということであります。
これは又、非常に大切なことでありましてね、皆さん方がこうやって信心をなさった、折伏を受けた、その教化の中で何をもって、今の自分が信心の決意に立ったかということを考えてみますと、やはりそれは折伏を受けたときに、この御本尊様には「祈りとして叶わざるはなし」という大きなこの功徳。必ず私達の欲するところ、願うところ、祈念するところが、この信心を通して着実に、この信心を全うするときに一つ一つそれが叶えられていく。「祈りとして叶わざるはなし」ということが、日寛上人の『観心本尊抄文段』の冒頭に説かれている。その御文をやはり皆さん方が心から信じて、そしてこの信心に入ってこられた、ということと思うのであります。その「祈りとして叶わざるはなし」ということが、この「楽欲悉檀」。仏は、その願うところ、衆生の欲するところ、衆生の望むところ、その祈りに対して、衆生にそれを叶えさせて、その歓喜の利益、信心の喜びを与えてあげる。そういうことが、仏は「世界悉檀」をもって衆生を教化し、歓喜の益を施すということなのであります。その仏の化導に従って、私達もやはり人々に対して、そういう「楽欲悉檀」、「世界悉檀」を通して、その信心の喜びを、その歓喜の功徳を成就させてあげる。そのお手伝いをしてあげるということが「世界悉檀」をもって教化・折伏するという姿だと思うのであります。どうか皆さん方も、そういうきっかけをもって、大勢の人々に、この妙法の下種結縁の大徳を施して頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。
(昭和六十二年十二月二十日)

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