『日曜講話』第一号(昭和63年3月6日発行)
為人悉檀について

 皆さん、お早うございます。今日は本年最後の日曜日でございます。本年一年の皆様方の信心、そして又、来年新しい年と共に、自分の命と言いますか、心と申しますか、信心の一切が生まれ変わった、新しい出発を期して頂きたいと念願する次第でございます。
  皆様方も、例えば東京なら東京に長くお住まいの人には東京の気質というものがありますし、関西で生まれた人、京都の人なら京都、大阪の人なら大阪の人のような、何となくそういう雰囲気、気質というものがあるものであります。そういうことなら納得ができるのでありますけれども、やはり同じ理屈で、その人の傾向性と申しますか、これは信心の上でも必ずあるものであります。例えば自分の家が先祖代々念仏だったというならば、その念仏の家に生まれた念仏のそうした命と言いますか、罪障と言いますか、そういうものが、自分は生まれながらにして宗教的なことは、謗法は何一つ犯していない、宗教的なことは一切無関心で生きてきた、というような人であったとしても、やはり自分の先祖代々の人達が禅宗に冒されてきた、長い間、真言に執してきたといいますと、その命の一分の中に、そうしたその人の真言の命、罪障というものが、やはり、わが身の上に流れて来ておる、ということを知らなければいけないのであります。
  大聖人様は『佐渡御書』という御書の中に、
  「烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし」(全九五九)
ということをおっしゃっておられます。
  私達がこの信心を通して、一人一人の命を六根清浄の命に転換していくということは、ただただ御本尊を持ち、漫然としてお題目を唱えていれば、それとなく、いつかは罪障が消滅されていくというような単純なことを考えていたのではいけないのであります。信心はいつも申し上げますように、ただ功徳を頂きたいから「功徳を下さい。あれを下さい。これを下さい」と、ただ物請いをすることが、大聖人様の弟子として生きる道ではないのであります。私達は、この御本尊を命懸けで持って、そうして大聖人様と同じ御精神に立って、同じ信心の上に立ってお題目を唱える。
  身口意三業ということを言われますが、やはり心も、そして唱える口も、又、行ずる自分の生活、自分の命というものも、やはり大聖人様の御指南を通して、自分の命を全うする。大聖人様の御精神を体して一生懸命、勉強をする。大聖人様の御指南を通して、やはり仕事に従事する。そして大聖人様の御指南を通して、病なら病を克服していく。あらゆる生老病死、一切の悩みに苦しみに、その壁にぶち当たって、それを乗り越えて行く。常に大聖人様の御指南を通してということを根底に置いて、この生涯を生きていく。人生を全うしていくときに、私達の心も、眼も耳も鼻も口も、命の一切が大聖人様の仏法に裏打ちされた、文字通り人間の改革された、六根清浄の即身成仏の境涯へと生まれ変わっていくのであります。ただただお題目さえ唱えていればいい、ただただ物請いの信心をしていればいい、ということではないのであります。やはりそのことを心に置いて、少しでも大聖人様の御精神に近付ける自分になる。少しでも自分の至らないところを、自分の振舞いを、大聖人様の御義に叶う自分の振舞いに。少なくとも自分の人を見る眼が、ものを見る眼が、大聖人様の仏眼に少しでも近付くように、叶うような、そのことをやはりどんな形でも結構でありますから、一人一人がそうした六根清浄な命へと変わっていけるような自分ということを誓願をして、その気持ちの上に立って、御本尊を信じ、題目を唱え、生きていくということが大切だと思うのであります。そうしますと、いつの間にか、いい加減な自分の心、脆弱な心、又、怠惰な心というものが淘汰されて、大聖人様の仏法に照らされた自分の心に変わっていく。あるいは人を見る眼、ものを見る眼というものも、いつとはなしに、自分の同じ肉眼であり、同じ自分の顔に整った眼であったとしても、見る眼が、本当の情愛を持って、慈悲を持って、人を見、ものを見る、そういう眼に変わっていく。人の言葉を聞いても、そういうものに紛動されないで、正邪の弁別が、きちっと、その時点その時点で正しく判断できる、そういう耳の持ち主に、いつとはなしに変わっていく。自分の話す口、話す言葉というものも、やはりそれは大聖人様の仏法に叶ったその口、例え同じ折伏なら折伏に行きましても、なんとかして相手を救ってあげようというその言葉、言葉、こちらが発する言葉が自分の言葉じゃなくて、大聖人様の心に従った言葉に、いつとはなしに変わっていく。そういう風にして自分の命がいつとはなしに変わっていくものだ、ということを考えて頂きたいと思うのであります。ですから信心はただ漫然とやるのではなくて、少しでも自分の心と言わず、考えと言わず、信心と言わず、生活と言わず、一歩一歩、大聖人様の御指南に近付くということを心掛けけて、お題目を唱え、そうして、この信心を全うしていって頂きたいと思うのであります。
  と同時に、先般の日曜日のときに、仏の化導は「世界悉檀」ということに併せて「為人悉檀」「対治悉檀」「第一義悉檀」ということがあるということを申しました。この「為人悉檀」ということは、相手の立場に立って、相手の境遇に立って、相手の悩みに立って、相手の苦しみをやはり良く理解して、その上に立って相手の信心が全うできるように、相手が少しでも大聖人様のそうした御義に叶う信心ができるように、又、長い間、謗法に汚れた命というものを、この大聖人様の信心を通して、御本尊を通して、その光明を通して、本当に六根清浄な命へと転換してあげられる、そのお手伝いをすることが、これが「為人悉檀」ということなのでございます。
  『法華玄義』の中にも、
  「大聖(仏様)は人の心を観じて為に法を説きたもう ○善根を増長して其の善法を施すなり」
(大正蔵三十三−六八七・A)
ということをおっしゃっておられます。私達はよく折伏をするときに「この御本尊は福として來らざるはなしの御本尊ですよ」と言って折伏をします。その「福として來たらざるはなし」ということは、その人その人が心に期するものを持って、この御本尊を頼み、そうして信心をする。だからその期するところが一つ一つ叶えられていく。従ってそこに「福として來たらざるはなし」という生善の利益が備わってくる訳でありますね。その生善の利益を施すということは「福として來たらざるはなし」というところの、仏の、「為人悉檀」なのであります。
  ですからその仏の本懐に叶うようにすると同時に、願う衆生の、相手の本懐を少しでも叶えてあげるということが、私達の弘通におけるところの「為人悉檀」の折伏なのだという風に考えて頂きたいと思うのであります。と同時に、病気の人には病魔を克服した功徳の体験を話してあげる。夫婦の問題で悩んでおる人に対しては、その夫婦の問題で悩んだその人の体験を又、話してあげる。仕事に行き詰まったということで悩んだ人は、あるいは又、会社の人間関係で悩むという人に対しては、又そういうものを克服した人の体験を話してあげる。そういうことが、みんなこれは「為人悉檀」につながっているのであります。少なくとも又、折伏は自分のためにするんじゃなくて、相手の立場に立って、やはり相手を救ってあげる、相手を幸せにしてあげる、その一念が、それが「為人悉檀」なんだということでありますね。ですから、そうした「為人悉檀」ということも良く心に置いて、相手の立場に立って、そうして相手の幸せのためにそれを先ず願い、自分がやはりその幸せを祈ってあげる。そうして又、何回となく足を運んで、相手の心を切り開いてあげるということが大切であります。
  日顯上人は「少なくとも一人の人を救うためには、その人に二十五回・三十回と足を運んであげなさい」ということを言われております。それほど足を運んで誠意を尽くさなければ、人というものは本当のところはわかってくれない。本当の打ち解けた関係を結ぶということは、通り一遍の話しでは絶対通じない。電話だけじゃ通じません。手紙だけでも通じません。やはり相手の家に何回となく何回となく足を運んで、嫌われようが疎んじられようが、最初はみんなそうです。ですけれども先ず相手と話し合える関係、相手と今はわかり合えなくても、少なくとも信頼関係を先ず、十回・十五回と足を運ぶ間に作っていく。それが又、二十五回・三十回と重なる間に、やはりその相手の立場に立って考えられる自分、相手の立場に立って、こちらが誠意を尽くしてあげているということが、相手の心に通じていく訳でありますね。ですから根気よく努力を重ねて、そうして相手の立場に立って、相手のためにこちらが足を運んであげる。その執念が必要なんだ。これがやはり自分の祈りも相手の祈りも共に「福として来たらざるはなし」という、そうした生善の利益につながっていくということを、しっかりと心に置いて、来年一年、再び新しい折伏の誓願に立って、この信心を全うしていって頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。どうかいいお年をお迎え下さい。
(昭和六十二年十二月二十七日)

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